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喜味こいしさんを悼む

■記者 岩崎秀史

戦争やったらあかん 被爆体験とつとつと

 喜味こいしさんは、兵役に就いていた広島で被爆した。長く胸にしまっていた記憶。晩年、少しずつ言葉に残していた。

 広島市の中国軍管区教育隊にいて、広島城北側の兵舎で被爆。柱などの下敷きになり、一時気を失ったが救出された。当時17歳。川面に浮かぶ遺体を目の当たりにし、臨時野戦病院が置かれた似島へ搬送される途中、惨状を目にした。

 戦後、被爆体験を語ることのなかったこいしさん。2000年から取材した中国放送の三村千鶴プロデューサー(48)は当初、マネジャーから「笑いを取る仕事。被爆体験を語る活動はしたくない」と断られたが、粘り強く説得。重い口を開いたこいしさんの証言が手掛かりとなり、ともに被爆した戦友が宇部市にいると分かった。再会などの様子をラジオのドキュメンタリー番組で放送した。

 いつもの軽妙な語り口は、あの日のことになると消えた。とつとつと、多くは語らなかった。「亡くなりはった人がぎょうさんいてんのに、死んだ人に悪うてな」「なぜ自分が生きているのか。恥ずかしい…」

 2000年と2004年の夏。こいしさんは自身が救護を受けた似島へ渡り、三村さんの取材を受ける予定だった。広島港で似島を目の前にすると、しばし涙を流し、手を合わせた。島での取材は2回とも取りやめになった。

 49歳の時、ぼうこうがんを患ったが、被爆者健康手帳は取得しなかった。三村さんが理由を尋ねても「ええがなあ」と笑い流した。「忍び寄る恐怖はあったと思う。それをみじんも感じさせなかった」と三村さん。「戦争はやったらあかんなあ、二度と」。こいしさんの口癖が今も耳に残るという。

(2011年1月26日朝刊掲載)

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