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社説・コラム

原爆犠牲の同僚 今も心に 呉で撃墜され捕虜 元米軍機長カートライトさん 

広島の温かみ

 太平洋戦争末期、呉沖で撃墜され旧日本軍の捕虜となった元米軍機長のトーマス・カートライトさん(90)が米ユタ州の自宅で取材に応じた。広島市内に収容された後、東京に身柄を移され被爆を免れたが、残った同僚6人が自国の投下した原爆の犠牲になった。「米国の原爆被害者のことが忘れ去られようとしている。日米で、もっと知ってほしい」と振り返った。(モアブ山本慶一朗、金崎由美)

 ―今でも当時を思い出しますか。
 もちろんだ。墜落機から命懸けで脱出したこと。部下の乗員たちの顔…。今も夢に出てくる。

投下前 東京へ

 ―どんな状況でしたか。
 1945年7月28日、私は読谷飛行場(沖縄県)からB24爆撃機ロンサム・レディー号を操縦し、戦艦榛名を4機編隊で爆撃した。しかし対空砲火を浴び、エンジンから出火。機体を制御できなくなった。9人の乗員全員の脱出を決断した。

 極限状況で、機長の職責を全うするという一心だった。全員の脱出を確認し、最後に飛び出した。山口県伊陸村(現柳井市)に機体は落ち、私は1キロほど離れた場所にパラシュートで着地した。近くの警察署に連れて行かれ、目隠しされたまま広島に移送された。そこで同僚たちと再会した。

 ―ところが8月6日を境に運命が大きく変わってしまったのですね。
 理由は不明だが、さらに取り調べを受けるため原爆投下前に東京へ移された。私は偶然にも生き延び、乗員のうち広島にいた6人が原爆の犠牲になった。同志を失った心の傷は消えない。だから長い間、戦争体験を積極的に話さなかった。

 過去を見つめ直した契機は、農業の研究者として勤めていたテキサス州の大学を退職した92年以降のことだ。家族に促され、自分の体験や仲間について記録しようと考え始めた。10年余り前、日米で回想録を出版した。

広島の温かみ

 ―99年には、広島や呉、柳井を訪れ自らの足跡をたどっています。何が印象に残っていますか。
 被爆死した捕虜についての情報を掘り起こし、追悼してきた広島の歴史研究家の森重昭さんをはじめ大勢の人たちが温かく迎えてくれた。かつての敵同士が平和的に交流し、相互理解を深める素晴らしさをかみしめた。本当に感謝している。

 再び犠牲者を出さないため、核兵器を廃絶するべきだという声も印象深かった。原爆はあまりにひどい被害をもたらした。大切なテーマである。私も経験を踏まえて思いを伝えたいが、高齢になり行動できないのは残念だ。

 ―米国は自国民がいると知りながら原爆を投下したと思いますか。
 米軍は日本国内の捕虜収容所について調査していたが、広島市内にはいないとみていた。仮に事実を知っても、原爆使用の決定に影響したかは分からない。

 ―米国の若者は原爆について知っていますか。
 米政府は終戦後、犠牲者の遺族に詳しい事実を知らせなかった。米国人の多くは、自国の原爆被害者について無知だし関心もない。だが存在を忘れてほしくない。日米で若い世代が歴史を学び、語り継いでくれるよう願っている。

(2014年12月18日朝刊掲載)

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