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社説・コラム

『潮流』 「松本サリン」の記憶

■論説委員・岩崎誠

 国宝のお城から歩いて10分もかからない。近づくと胸が締め付けられるように緊張した。20年前の「松本サリン事件」で死者が8人に上った長野県松本市内の静かな住宅地。今月、初めて足を踏み入れた。

 オウム真理教がサリン攻撃の標的とした裁判所官舎や被害の大きかったマンション。被害者なのに犯人扱いされ、深刻な人権侵害を被った河野義行さんが住んでいた家…。ニュース映像で記憶に残る街のたたずまいが、今も残っていた。

 世界史上例のない神経ガスによる市街地テロは、翌年の「地下鉄サリン事件」に結びつく。食い止めるすべはなかったのかと、あらためて痛感する。

 二つのテロ事件をきっかけに、同僚記者とともに長期の連載記事を走らせたのを思い出す。足元の大久野島(竹原市)の実態からひもとき、戦前から現代につながる毒ガスの脅威を伝えようと各地を駆け回った。

 取材過程で気付いた事実は象徴的だった。

 元陸軍関係者が残したリストを手にした。猛毒イペリットをはじめ、化学兵器の原料を軍が調達した民間企業の数々を記す。そこに見つけた化学メーカーの名前。半世紀を経て、オウム側がダミー会社を通じて入手したサリン原料の製造元の一つとされていた。

 そもそも兵器化が可能な化学物質の多くは、昔も今も産業界にはありふれたものだ。大久野島でも殺虫剤などの民生品を、並行して製造していたという。軍事利用と平和利用の境目があいまいだからこそ、悪用されやすい。現代社会も背負うリスクなのだろう。

 この20年を思う。地下鉄サリン事件の2年後に化学兵器禁止条約は発効する。しかし「サリン使用」の悪夢は昨年シリアでよみがえった。無差別な化学テロをもくろむ勢力が国際社会に潜む可能性もあろう。オウムの教訓はいまだ重い。

(2014年12月20日朝刊掲載)

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