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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 八木美佐子さん―天満川 人で埋め尽くす 

八木美佐子さん(84)=広島市安佐北区 

伯母のおかげで生き抜いた。愛情に感謝

 八木(旧姓寺尾)美佐子さん(84)は14歳の時、爆心地から約1キロで被爆し、両親を失いました。しかし、「親のように」育ててくれた伯母の木原ヨネさん(1895年生まれ、1954年に死亡)たちのおかげで戦後を生き抜くことができました。愛情に感謝し、今の平和な世の中をヨネさんに体験させてあげたかったと思っています。

 両親は、空鞘(そらざや)町(現広島市中区)で青果店を営んでいました。忙しかったため、国民学校に入る前からヨネさんに預けられていました。

 広島市立第一高等女学校(現舟入高、中区)3年の時、あの日を迎えます。普段は学校近くの関西工作所に動員されていましたが、電力不足による休日になったため、朝から舟入町(現中区)のヨネさん宅にいました。宿題だったブラウスの裁縫(さいほう)が終わり、うれしくて試着しようとした時です。「ピカッ」。太陽よりもっと強い光が部屋の中に飛び込んできました。「ドカーン」。同時にごう音がして家が崩(くず)れました。

 右足が大きな柱に挟まれて動けません。「助けて」。気づいた近所の男性4、5人が柱を持ち上げて引っ張り出してくれました。右太ももに切り傷を負いましたが、やけどはありませんでした。何が起きたのか分からないまま、家にいたヨネさんと、いとこの故木原重明さんの3人で近くの天満川の土手に逃(に)げました。

 一帯は人で埋(う)め尽(つ)くされていました。やけどのひどい人は水に入っていました。顔を水につけて動かなくなったり、体が水に浮いたままだったり…。助けられず見つめるだけ。その間に黒い雨に打たれました。

 昼ごろ、避難(ひなん)先にしていた己斐駅(現西広島駅、西区)前に向かって、被爆者の行列について「ぞろぞろ」歩きだしました。はだしだったので道路の熱さが直接伝わります。駅前は大混乱の様相でした。その中で、自分たちを呼ぶ人がいます。顔を見ても分かりません。名前を聞くと重明さんの妻でした。「色が白くてかわいらしい人」でしたが、顔は真っ赤に腫(は)れ上がり、両腕(りょううで)の皮膚(ひふ)は垂(た)れ下がっています。建物疎開(そかい)の作業中、被爆したからでした。

 4人ともトラックで観音村(現佐伯区)の観音国民学校に運ばれました。着くと外は暗く、建物疎開中に被爆した生徒が次々に運ばれてきます。校舎の中は「お母さん助けて」「水ちょうだい」という声が響(ひび)いていました。声はだんだん小さくなり、翌朝、静かになりました。重明さんの妻も何も言わず、息を引き取りました。

 両親の住んでいた自宅のある空鞘町は爆心地から1キロ足らず。安否については「だめだろう」と思っていました。戦後復員した兄が調べたところ、母は自宅で被爆した後、広島県八重町(現北広島町)に住んでいた姉の元へ行き、8日後に亡くなったそうです。父は軍需(ぐんじゅ)工場へ行くのに家を出たまま、見つかっていません。

 戦後は江波町(現中区)の借家でヨネさんと重明さんが面倒(めんどう)を見てくれ、48年に女学校を卒業。しかし、その二人は50年代前半に相次いで亡くなります。「困難な時代に育ててもらい、幸せになれた。感謝したい」

 54年に正人さん(89)と結婚(けっこん)。その後、転勤で中四国の5都市を回りました。その間も8月6日には、テレビの前で黙(もく)とうをささげていました。「みんな『お国のため』と頑張(がんば)っていたのに、原爆のため悲(ひ)惨(さん)な死に方で人生を終えた。戦争の代償(だいしょう)は大きすぎる。二度と繰(く)り返してはいけない」と力を込めます。(山本祐司)



◆私たち10代の感想

前向きに生きる力強さ

 「今健康なことが本当に幸せ」と笑顔で話す八木さんは、重い原爆症にはなりませんでしたが、爆心地から約1キロで被爆しています。私は、当時の八木さんと年齢(ねんれい)が近い15歳。自分だったら健康に不安を感じ、気持ちが押(お)しつぶされると思います。悲しさをにじませず、前向きに生きる姿に力強さを感じました。(中3山本菜々穂)

亡くなった生徒の無念

 観音国民学校で生徒が亡くなる様子を、涙(なみだ)ながらに話す八木さんの姿を見て、生徒の思いを想像すると、悲しくて全身が震(ふる)えました。彼らは、人生にやり残した無念さを抱(かか)えたまま、死んだように思います。戦争は人の命を奪(うば)い、誰(だれ)も喜びません。一日一日を大切に生き、平和な社会を築きたいです。(高1岩田壮)

つながり裂く核要らぬ

 「家族のことを考える余裕(よゆう)はなかった」という八木さんの言葉を聞き、驚(おどろ)きました。多くの人は真っ先に家族を捜(さが)し回(まわ)ったと思っていたからです。家族や友人を心配する余裕も持てなかったのかと思うと、原爆を憎(にく)く感じます。核兵器(かくへいき)は人のつながりをも裂(さ)く恐(おそ)ろしいものです。今ある戦争もすぐやめるべきです。(高1森本芽依)

(2014年12月22日朝刊掲載)

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