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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 空一雄さん―地獄絵図。感覚がまひして何も感じなかった

空一雄さん(85)=広島市佐伯区

語るべきか 揺れる胸中

 空一雄さんの自宅からほど近い海老山(かいろうやま)(広島市佐伯区)は桜の名所です。春になると花見客でにぎわいます。でも、空さんは「行く気にならん」と言います。被爆時の惨状(さんじょう)を思い出すからです。できるだけ触れないようにしてきた過去なのです。

 1945年当時、旧制山陽中の生徒で15歳でした。8月6日は、広島市内での建物疎開作業を休み、家業の米穀(べいこく)店を手伝うため五日市町(現佐伯区)の八幡川(やはたがわ)沿いの自宅にいました。爆心地から約8・2キロです。

 午前8時15分ごろ、家の中に白い光が差しました。精米機が止まり、屋外の電柱の変圧器が火を噴(ふ)きました。ドーンという大音響。強風が吹き込み、天井の一部が浮き上がりました。

 広島の方角を見ると、ねずみ色の雲が湧き上がっていました。黒い雨が降り、川にはハヤやフナなどの魚が浮いたといいます。

 川沿いに人が逃(のが)れて来ました。服が溶けて模様のように体に張り付いた女の人、髪が縮れて顔も膨(ふく)れあがった子ども…。ふらふらの人の列です。「ただの爆弾じゃないな」。父親たちと顔を見合わせました。

 口々に「水が欲しい」と言います。やけどした人に水を飲ませてはいけないと教えられていたため、つらかったけれど断りました。つまずき、そのまま息絶える人も相次ぎました。

 地元は亡くなった人の火葬に追われました。町の火葬場だけでは間に合わず、海老山に掘った穴の中で油をかけて荼毘(だび)に付したそうです。「1週間は続いただろうか」。怖くて近づけなかったですが、山から上がる煙と臭(にお)いを今も覚えています。

 空さんは8月9日ごろ、広島市街に行きました。呉市にいて連絡の取れない姉を訪ねるのと、被爆翌日か翌々日、ひどいやけどを負って十日市(現中区)から五日市にたどり着いた親戚(しんせき)の3、4歳年下の男の子の家の様子を確かめるためでした。

 荷馬車で出発しました。広島市中心部は一面の焼け野原。路面電車の線路をたどって進みました。ぽつんと止まった電車の中では、乗客が黒焦(くろこ)げになり、まだぶつぶつと音を立ててくすぶっていました。「地獄絵図(じごくえず)だった。でも感覚がまひして何も感じなかった」

 親戚の男の子は、空さんの母親が傷に卵の黄身を塗るなど看病して回復しましたが、十日市の家は跡形もなく、その子の両親の消息も分かりませんでした。

 相生橋(中区)の手前から、馬が先に進もうとしません。「馬は賢(かしこ)いから、人が焼けた臭いに反応したのだろう」。引き返すしかありませんでした。姉の無事が分かったのはしばらくしてからでした。

 原爆投下の数日後、爆心地近くに入った空さんは入市(にゅうし)被爆者です。しかし現在まで被爆者健康手帳は申請していません。「原爆でも戦争でもたくさんの人が苦しみ、亡くなった。元気で生きている自分が交付を受けるのは忍(しの)びない」と思うからです。

 戦後、東京で約3年間働きました。帰郷後、燃料販売会社を起こし、仕事に打ち込みました。「むごい光景だった。今の若い人に話すのはかわいそう」と、当時を積極的には語りません。

 ただ、原爆を知る人が確実に減る中、「求められれば、知っている範囲で話すべきだろうか」と思うようにもなりました。つらい過去と距離を置きたい気持ちとの間で、心は揺れているのです。 (新谷枝里子)



◆私たち10代の感想

直接話聞けてよかった

 空さんは「若い人に語るにはむごすぎる」と何度も話しました。原爆で変わり果てた人たちに接した体験が、それだけつらかったからでしょう。むごいけど、当時の様子を直接聞けてよかったです。絶対に戦争はいけない、という言葉と合わさって、平和への思いが一層強くなりました。(小6目黒美貴)

戦争起こさぬ努力必要

 「火葬場で、たくさんの人が焼かれていた。これが戦争だと思った」という一言が衝撃的(しょうげきてき)でした。「大勢の罪のない人々が亡くなり、悲しむような戦争を二度と起こさないでほしい」とも語りました。こんな悲惨な出来事がもう起きないよう、私たちが努力しないといけないとあらためて感じました。(中1川市奈々)

つらい体験 思いを継ぐ

 70年前の惨状を空さんは「あまりにもむごい。言葉には表せない」と繰(く)り返(かえ)しました。忘れてしまいたいだろうつらい体験を聞かせてくれたその思いを大切にしたいです。「積極性」の大事さも強調しました。いけないことはいけないと、きちんと言える人間に私もなりたいと思いました。(高1中野萌)

(2015年2月23日朝刊掲載)

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