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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 熊野巧さん―「地獄」地域貢献の原点

熊野巧さん(85)=広島市東区

足離さぬ少年。助けてやれず立ち去った

 助けられるものなら助けてやりたかった―。熊野巧さん(85)はあの日、足にしがみついて助けを求めてきた少年が忘れられません。火の海をくぐって生き延び、戦後は地域に貢献(こうけん)してきた原点には、少年を助けてやれなかった無念や、むごたらしい死体が散乱した光景があるのです。

 被爆当時は15歳、県立広島工業学校(現県立広島工高)の3年生でした。学徒動員で爆心地から約3キロの己斐町(現西区)の工場で働いていました。朝礼後に外へ出た瞬間(しゅんかん)、閃光(せんこう)が走り、強烈(きょうれつ)な爆風。気が付くと木造の工場は屋根だけを残して吹(ふ)き飛(と)んでいました。

 やがて真っ黒な雨が激しく降り、全身ずぶぬれで真っ黒になりました。「市内は全滅(ぜんめつ)だ。郊外の親戚(しんせき)や友人の家に避難(ひなん)しなさい」と指示されましたが、長男として家族の安否が気になります。「何としても家に帰る」と牛田町(現東区)の自宅を目指し、火の海の市中心部に向かいました。

 道路はほとんどがれきでふさがれていましたが、路面電車が走る広い道は何とか通れました。煙(けむり)と炎(ほのお)で数メートル先も見えず、頼(たよ)りは足元のレールだけ。ずぶぬれの服は高熱で乾(かわ)き、道路脇(わき)に点在する防火水槽(すいそう)に漬(つ)かっては進みました。何千人もの負傷者が、中心部から逆方向へと逃れて行きます。全身にやけどを負った血まみれの母親が子どもを抱く姿は「この世の地獄(じごく)だった」と振り返ります。

 現在の土橋町(中区)あたりで少年が30人ほど倒(たお)れており、まだ息があった1人に足を固くつかまれました。「どうか助けてください」。このままでは一緒(いっしょ)に死んでしまうと考え、「お願いだから離してくれ」と頼みました。しかし少年は手を離(はな)しません。何度も頼(たの)んだ末、「君の敵(かたき)はきっととる」と言うと、少年の手はすっと離れました。「すまんなあ」と謝りながら立ち去りました。

 自宅にたどり着くと家族は全員無事でした。翌朝から親戚救助のため父親と中心部に通いました。放置された遺体にうじがわいています。焼けた電車の窓には逃げようとした人の黒焦(こ)げの死体が…。あの少年がいた場所には、たくさんの白骨が並んでいました。涙(なみだ)が止まりませんでした。

 生き延びた友人や近所の人たちも相次いで亡くなりました。1歳(さい)年下の無傷の男の子は髪や歯が抜け、3日後に亡くなりました。次は自分の番か―。朝起きるたび、「生きている」とほっとしました。やがて原爆症(しょう)に苦しむようになりました。

 戦後、脊髄腫瘍(せきずいしゅよう)など大病も患いました。最もつらかったのは次女の死。誕生から1カ月後、妻の里へ行ってみると、次女は生まれた時より小さくなっていました。検査で心臓肥大と分かった10日後、亡くなりました。取り乱す妻を見て思いました。「娘を亡くしたのは自分が原爆症だからだ」

 戦後、自動車販売(はんばい)会社の「鬼軍曹(おにぐんそう)」として部下の先頭に立つ一方、母校の同窓会長を長年務め、社会奉仕団体でも活動してきました。「何度も死んだ命だ」との思い。脳裏から離れないあの日の光景。「生き抜いて世のため人のために尽(つ)くそう」と考えたのです。

 「こんな目に遭(あ)うのは自分たちだけでいい。若い世代には平和に生きてほしい。戦争も原爆も絶対反対」。そんな思いを若い世代に伝えたいと願っています。(根石大輔)



私たち10代の感想

核兵器廃絶の思い強く

 近所の人が原爆症(しょう)で亡くなる中、熊野さんは毎朝、髪や歯が抜(ぬ)けていないか確認していました。目が覚めるたび、死の不安を感じる生活。私には耐(た)えられません。何十年も後に症状(しょうじょう)が出て何度も死に直面したそうです。時がたっても被爆者を恐怖(きょうふ)に陥(おとしい)れる核兵器(かくへいき)。廃絶(はいぜつ)すべきだとあらためて感じました。(中2藤井志穂)

自分にできる事考える

 今にも死にそうな少年から、足に懸命にしがみつかれた話にとても心を打たれました。「敵(かたき)は取るから」と言って離(はな)してもらったものの、助けられなかったつらい思いを抱(かか)えながら生きてきました。その悲しみをしっかりと心に刻み、このような悲劇を二度と繰(く)り返さないため、自分に何ができるか考え続けたいです。(中3岡田実優)

力強い言葉と姿に感銘

 「だめと思ったら人間だめになる。気力が大事」。死のふちに何度も立ちながら克服(こくふく)された熊野さんの力強い言葉と、背筋を伸ばして生きる姿に感銘(かんめい)を受けました。「生かされた命なので、社会に貢献(こうけん)してきた」という話にも共鳴。私も、今生きている喜びをあらためて感じ、辛抱(しんぼう)強く、目の前のことに一生懸命尽(いっしょうけんめいつ)くしたい。(高2二井谷栞)

(2015年4月27日朝刊掲載)

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