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原爆孤児支えた菩薩行 本願寺派の故山下師 広島・佐伯区の有志 紙芝居などで継承

 原爆孤児を物心両面で支えた広島戦災児育成所の開設者で、浄土真宗本願寺派僧侶、山下義信さん(1894~1989年)の心を語り継ごうと、広島市佐伯区皆賀地区の住民有志が活動している。紙芝居の読み語りや、元職員たちとの交流が柱。育成所内の「童心寺」を拠点に宗教教育を重視し、私財を投じて子どもたちに寄り添った山下さん。その姿を「菩薩(ぼさつ)行」ととらえ、戦後70年を機に学び直す試みでもある。(桜井邦彦)

 紙芝居は約30分。1945年12月の育成所設立の経緯、亡き母に会いたい一心で山下さんに懇願して得度した「原爆少年僧」の話、育成所職員の姿などを盛り込んだ16枚からなる。育成所跡地の隣に暮らす木下数子さん(78)が昨年春に作った。

 木下さんは76年に現在の家へ引っ越し、近所の人から聞いた山下さんのエピソードに感動するなどして、紙芝居づくりを思い立った。「育成所の子はどれだけつらかっただろう。涙で筆がなかなか進まなかった」と木下さん。育成所を取り上げた中国新聞の連載記事などを参考に、絵は得意の水彩画で描いた。

 紙芝居の完成を機に、育成所があった皆賀地区の住民がことし2月、「童心寺を次世代に語りつぐ会」を結成した。現メンバーは12人。依頼に応じて木下さんが子ども会や寺などに出向いて紙芝居を読み語るほか、3月には地元で初の交流会を開いた。育成所の元職員の女性も西区から参加。交流会は年1回開き、住民たちが当時の実話に触れる場にする。

 育成所は、戦後、長崎県五島列島から引き揚げた山下さんが開設。財政難で53年に市へ移管し、67年の閉所までに孤児を中心に312人が巣立ったとされる。47年建立の童心寺は、本願寺派から49年に認可された。子どもたちが親を供養し、毎朝お勤めして宗教教育を受ける学びの場だった。木下さんは「童心寺では礼儀、努力、慈悲深さをしつけで大切にしたそうです」と話す。

 山下さんは、呉市にあった実家の呉服店の土地や建物などを売却し、2期務めた参院議員の報酬も、育成所の運営費に充てた。「父となれ 母となれ」をスローガンに、家庭的な雰囲気を重視。わが子5人も育成所で孤児と分け隔てず育て、山下さんや妻禎子さんのことを「お父さん」「お母さん」とは決して呼ばせなかった。

 「私たち子どもは、家庭を見向きもしないおやじを恨んだこともあった」。育成所で約2年間生活した長男晃さん(84)=中区=は振り返る。「わが身を捨てないと人のためには尽くせない。菩薩さんのように宗教心に根差した広い広い愛があった」と父を思う。今は自らも得度し、紙芝居の監修などで語りつぐ会に協力している。

 語りつぐ会の久保田詳三会長(68)は「私なら、いろんな煩悩があり、社会のために全私財を投じるなんてとてもできない。生き抜いた子どもたちの姿は親子愛についても教えてくれる」と、あらためて胸に刻む。

 語りつぐ会は、浄土真宗の僧侶や門信徒たちでつくる「甘露の会」が6月17日に本願寺広島別院(中区)で開く「被爆70年と安芸門徒の歩み」に招かれ、紙芝居を披露する。甘露の会会員で法専寺(佐伯区)の亀井顕雄住職(57)は「菩薩行をこれだけ実践した人は、なかなかいない。その生き方に、東北の震災などで人のつながりが問われている現代人が学ぶべきことは多い」と強調する。

(2015年5月25日朝刊掲載)

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