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連載・特集

戦後70年 戦争とアスリート 広島 <1> 野球 岡田宗芳(1917~42年) 広陵中→大阪タイガース

戻れなかった甲子園 盟友藤村に強い対抗心

 甲子園の決勝戦。晴れ舞台で躍動する球児の3人に1人が戦死する時代を今、想像できるだろうか。

 1935年4月7日の選抜中等学校野球大会決勝は、広島・広陵中(現広陵高)と岐阜商(現県岐阜商高)が熱戦を繰り広げた。互いに交代はなく、出場者は計18人。このうち6人の命が、10年余りの間に戦場で散った。

 その1人が広陵中で「2番、遊撃」を担った岡田宗芳だ。広島市出身で、当時の三浦芳郎監督が「天才肌」と評した軽快な守備が持ち味。1学年下で後に巨人、広島で名遊撃手と呼ばれる白石勝巳が一塁を守ったことでも、技量が知れる。

 決勝は4―5で惜敗。大会の優秀選手に選ばれた岡田をはじめ、誰もが悔しさをあらわにしたという。前年の34年夏の甲子園で、藤村富美男を擁する広島・呉港中(現呉港高)が全国制覇。「呉港との試合になると一番張り切っていた」。兄の浩吉さん(故人)がそう振り返っていたほど、同学年の藤村への対抗心は強かった。

 翌36年には、その藤村とともに結成されたばかりの職業野球・大阪(現阪神)タイガースに入団する。背番号3。打順は下位ながら「タ軍の明星」と呼ばれる活躍を見せ、37年には現在の球宴に当たる東西対抗戦にも出場した。

 だが、職業野球にも戦争の影が忍び寄る。沢村栄治(巨人)や景浦将(阪神)らスター選手が戦場へ赴く中、岡田も40年に応召。実働5年、出場269試合でバットとグラブを置き、武器を携えた。

 阪神の球団史には、こんな逸話が残る。召集された藤村が、中国の駐屯地で偶然に岡田と再会。思わず「チョビ」「フジさん」と愛称で呼び合い、時間を忘れて話し込んだ。翌朝、藤村は名残を惜しんで岡田を訪ねたが、部隊は既に南方へ出発していた。同郷のライバル、友人の最後の対面だった。

 42年12月、岡田はニューギニアで砲弾に倒れた。25歳。後に「ミスター・タイガース」と呼ばれる藤村とは対照的に、再び甲子園の土を踏むことはなかった。

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 戦後70年。スポーツ界にも戦争は大きな影を落とした。激動の時代を生きた広島ゆかりのアスリートを追う。

(2015年6月30日朝刊掲載)

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