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連載・特集

ヒロシマ70年 第1部 まちの原点 <3> 焼け跡にともした電気 配電設備の復旧に尽力

 広島市南区にある比治山の山頂から、西を望む夜景を描いた油絵がある。崩れ落ちた広島県産業奨励館(現原爆ドーム、中区)の周囲に点在する建物から漏れる明かり。1945年9月10日午後8時。被爆後1カ月の焼け跡を描いた作品を、作者はこう名付けた。原子砂漠に灯がともる―。

 8月6日午前8時15分。米国が投下した原爆は市内のインフラを一瞬にして破壊した。爆心地から約700メートルの中国配電の本店(現中国電力、中区)4階で被爆した当時工務課の向井哲郎さん(94)=東区=は机ごと5メートル吹き飛ばされた。「上着を脱ぎ、頭から覆って脱出した。2階で悲鳴を上げる女子職員に飛び降りるよう叫び、同僚と受け止めた」

8月末に再開

 向井さんは市中心部への電力供給を担った千田町発電所(現変電所)の消火などを手伝い、国泰寺町(現中区)の防空壕(ごう)で一夜を明かすと、翌午前10時に本店に戻った。本店勤務の3分の1に当たる100人余りが亡くなり、遺体を焼くのを手伝った。「今思えば逃げても不思議じゃない。じゃけど、電気をともすという責任感にせき立てられとった」

 同僚とともに、三篠変電所(現西区)の壊れた配電盤を修繕。8月末の運転再開につなげた。爆心地から1キロ以内の木柱は、8割以上が焼失していた。復旧を指揮した当時の企画課長、故真田安夫さん(後に副社長)の指示で傾いた木柱を起こし、三次、呉市の関連組織からも応援を受けて路上の電線を拾って張った。向井さんは設計技術者だったが「とにかく、人が足りんかった」。

 脱毛などの急性症状がひどくなる24日まで、向井さんは焼け跡に出た。休養の申し出を認められた後、三次市の実家で療養。白血球が激減していたが、真田さんから届いたビタミン注射100本で助かったという。「命の恩人」と言う真田さんは「広島経済人の昭和史」(88年発刊)で、半年休まず復旧に尽くしたと明かしている。市内の残存家屋への送電復旧は11月に完了した。

30年後に油絵

 千田町発電所をはじめ、被爆した市内の配電設備は戦後、次々と復活。電力需要の高まりに対応し、中電の供給力は10年後、戦前の約2倍に伸びた。その後の高度経済成長も支えた。

 油絵に描いた作者も、インフラ復興の担い手だった。国鉄の信号技士として国鉄広島駅(現南区)周辺のケーブル地中化を指揮していた田中儀作さん(2000年に98歳で死去)だ。

 あの日は休日明け。下関市の自宅から列車で広島に入り被爆した。電気設備の復旧が一段落し、比治山の伯母方を訪ねた翌月の光景を、30年後に描いた。「ぱっと電気が一つ、ともったんよ」。同居していた長男の妻頼子さん(69)は、笑顔で説明する田中さんの様子を覚えている。

 市民に復興の希望を与えた電力復旧。70年を経て今、現場の配電部門を束ねるお客さまサービス本部配電総括担当の上田明正マネージャー(49)は力を込める。「惨状の中で発揮された電力マンの配電魂を誇りに思う。『市民生活第一』という、その使命感を受け継いでいきたい」と。(樋口浩二)

(2015年7月16日朝刊掲載)

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