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連載・特集

埋もれゆく戦災の悲劇 中国地方 原爆除き8330人以上の死者

 太平洋戦争末期に集中した中国地方の戦争被害。どこで、どれだけの人が亡くなったのか。素朴な疑問から始めた取材だが、事実を正確につかむのは難しく、今なお地道に情報収集を続ける市民や研究者の存在を知った。広島での原爆被害の甚大さに隠れがちな各地の戦災。半年に満たない間に失われた8330人以上の犠牲の重みとともに、命が軽んじられる世の中がわずか70年前まで存在していた事実を胸に刻みたい。(馬場洋太、石川昌義)

資料ごとに異なるデータ/公的記録ない犠牲者も

 空襲などの戦災死者は各県の警察史や市町村史に記録されるが、資料によって記述が異なる例が目立った。原爆を除く空襲の犠牲者が中国地方で最多だった呉市。市史は警察資料と市の内部資料、後の調査報道など異なるデータを併記し、実態把握の困難さを物語る。

 公的記録に残されていない犠牲者もいた。山口市の二島小が1975年に刊行した同小百年誌は、塩田の復旧作業に動員中の児童2人が爆撃を受けて亡くなった事実を刻む。しかし、山口市史に戦災死の記述はない。

 岡山空襲を研究する元教員の日笠俊男さん(81)=岡山市中区=は、学校などに残る地元資料と米軍資料を照合する活動を続ける。岡山県史が出典を明示せず「死者九人」と記述する7月8日の玉野市への空襲について「米軍機の飛行記録や住民証言、地元資料などに被害を裏付ける材料は一切なかった」と指摘。「県史の虚構の記述が無批判に引用され、後世に伝わっている」と問題視する。

 一方で、新たに事実を掘り起こし、近年の刊行物で犠牲者数を修正した例もある。光市は市史(75年)で空襲の死者数を738人と記述していたが、ことし市教委が作成した資料では、86年に実施した市民への聞き取りを基に748人に上積んだ。笠岡市の北木島空襲は岡山県史(89年)に記録がないが、笠岡市史(96年)は住民の証言を基に2人の死者を記録する。

 この特集でまとめた戦災のほかにも、関門海峡や瀬戸内海での機雷による船舶被害や動員作業中の落盤事故などでも尊い命が失われた。戦争体験者の高齢化が進むいま、埋もれゆく事実を発掘するための時間は、残り少ない。

被害確認 年月とともに難しく

山口県の空襲被害を調査する元高校教諭 井上実智夫さん(67)=宇部市

 70年前の空襲被害を確かめる作業は、年月の経過とともに難しくなっている。私が調査を始めた約25年前に証言してくれた人の多くが亡くなった。「記憶が曖昧になった」と追加取材を断られることもある。

 個人情報保護法の影響もある。死者数を突き止めるには、資料と地元の証言を照合するのが確実な手法だが、行政に情報公開請求をしても、個人情報保護を理由に開示を断られたことがある。

 戦時中の情報統制もあり、そもそも空襲被害は記録が乏しい。終戦直後の混乱の影響もある。比較的、詳細に記録されているのが、学校の校務日誌や警察の内部資料だ。学校や教育委員会、警察の責任者が関心を持ち、情報の発掘に協力してくれるか否かにかかっている。

 一方、図書館で閲覧できるような資料で、事実を突き止められる例もある。山口市の二島小の記念誌に記述されていた動員学徒2人の死。終戦直後に山口県がまとめ、県文書館が保存する「長官事務引継書」には「死者二」の記述があり、符号した。

 身近な地域であった戦災の実態を後世に受け継ぐことは、子どもたちが戦争について考える大きなきっかけになる。本気で調べ、伝えていくしかない。

いのうえ・みちお
 北九州市出身。2011年まで宇部フロンティア大付属香川中・高(宇部市)教諭。12年に冊子「山口県の空襲」をまとめた。

※1因島空襲(尾道市)は市史などに記述が乏しく、具体的な死者数は記されていない。地元の研究者が「100人を超える死者がいた」と主張している。

※2山口県周防大島町では、合併前の旧町史に戦災死者の具体的な数の記録はないが、旧久賀高の創立75周年記念誌に「教員1人が公務中に爆撃を受けて死亡した」と記述がある。旧大島町の住民団体がまとめた戦争体験記にも沖家室島で「2人即死、周りの家々の破壊もひどかった」との手記が載っている。

(2015年7月20日朝刊掲載)

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