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連載・特集

びんごの70年 因島空襲 <1> 軍需工場 鉄の雨 重要施設を破壊

 1945年7月28日、尾道市因島の軍需工場を米英軍の戦闘機が攻撃し、従業員や市民の命が奪われた。しかし、公の資料ではほとんど触れられておらず、死者数すら判明していない。あれから70年。被害の実態を証言や資料から浮き彫りにし、島の戦争の惨禍を継承しようとする若者の姿を追う。(新山京子)

原形のない銃弾

 原形をとどめないほどつぶれた鉄塊。機銃掃射の激しさを物語る。同市因島中庄町の自宅で、星野正雄さん(88)は長さ4・3センチの銃弾を木箱から取り出し、見詰めた。「突然、鉄の雨が降ってきた」

 あの日、午前11時45分。当時の日立造船因島工場(同市因島土生町)と三庄工場(同市因島三庄町)の上空を戦闘機が飛び交い、逃げ惑う人に銃弾を浴びせた。二つの工場は陸軍の特殊船のほか大型貨物船の新造を担った計1万人規模の県内でも大規模な軍需施設。因島工場は、約4カ月前の45年3月19日にも空襲被害に遭っていた。

 市民グループ仙台・空襲研究会(仙台市)が入手した英国の資料によると、7月28日の因島空襲は、紀伊半島沖の空母を朝に飛びたった英海軍の爆撃機や戦闘機計35機が500ポンド爆弾で攻撃したとされる。空襲を研究する徳山高専元教授の工藤洋三さんが入手した、米国立公文書館所蔵の当日の空撮写真には、煙を上げて燃える三庄工場と民家が生々しく記録されている。

作業場に防空壕

 入社4年目、18歳だった星野さんは、因島工場の船の部品やエンジンの不具合を検査する部門で、早朝から日没まで汗を流す日々を送っていた。

 戦況が悪化すると、作業場にそれぞれ、高さ1メートルほどに土を盛った簡易防空壕(ごう)を造った。広大な造船所では、山に掘った防空壕まで着く間に撃たれる恐れがあったからだ。「今日は来るのでは」。いつ現れるか分からない敵におびえていた。

 そして空襲当日、南西の生名島方面から戦闘機の爆音が突然聞こえた。「逃げろ。敵機来襲」。誰かの叫び声にはじかれるように星野さんたちは走りだした。降り注ぐ銃弾を避け、間一髪で物陰に隠れて助かった。

 攻撃が終わり、工場の様子は一変していた。ほとんどの屋根が爆風で吹き飛ばされ、次の日に出航予定だった船は燃えていた。星野さんの作業場の防空壕に爆弾が直撃し、さっきまで肩を並べて働いていた同僚たち30人以上が土に埋もれて息絶えていた。「信じられない」。涙をこらえながら、遺体を傷つけないように少しずつ手で掘り出した。

 毎年、あの日が近づくと、星野さんは孫たちに銃弾を見せながら語り掛ける。「この島にも戦争が来た。命を救われた者として、決して皆に忘れさせてはいけない」

(2015年7月21日朝刊掲載)

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