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シベリア特措法成立1年余 給付金対象制限に疑問

 昨年6月、シベリア特措法が成立し、終戦直後、旧ソ連などに強制抑留された旧日本兵たちに特別給付金が交付されている。中国地方では交付を歓迎する一方で、「遅すぎた」と複雑な反応も。交付対象から日本兵として徴用された朝鮮半島出身者たちを除外したことへの疑問もある。同法は政府に遺骨収集を促しているが、身元確認さえ難しく遺族の協力が求められている。 

 1945年8月、日本が受諾した連合国の「ポツダム宣言」には武装解除後の日本兵の本国帰還が明記されていた。しかし、旧満州(中国東北部)などにいた兵士たち約57万5千人はシベリアなどに送られ、多くが2~4年、木材伐採や炭鉱労働、鉄道建設などに従事。飢えと寒さで約5万5千人が死亡した。

 シベリア特措法は強制労働の対価が支払われていないことや、その「労苦を慰藉(いしゃ)するため」、帰国の時期に応じて25万~150万円を交付。今年7月末までに約6万4千件(対象見込みの95%)の支払いが終わった。

広島の若者も多く

 広島県は「満州開拓青年義勇隊」に参加した若者たちが多かったとされている。その一人の三原市皆実1丁目、田坂満夫さん(83)は軍と行動を共にしていてそのまま抑留された。当時17歳だった。

 「義勇隊(準軍属)には軍人のように恩給はない。まとまった交付金は初めてだから」と喜んだ。一方で「あまりに遅すぎた。生存者はほとんどいなくなった…」と複雑な胸の内をのぞかせた。

 特別交付金は特措法施行日(昨年6月16日)に生存し、日本国籍を有する人が対象。施行日前に亡くなった人の遺族や、約1万人が抑留されたといわれる朝鮮半島や台湾出身の「元日本兵」たちは交付から外れている。

 抑留者の一人の島根県邑南町下亀谷、品川始さん(87)は「朝鮮半島の出身者が同じ部隊にいた。彼らも命がけで戦争に行った。われわれと同じように交付金を支給するべきだ。なぜ除外したのか」と疑問を投げ掛ける。

 棄兵、棄民政策による国家賠償を勝ち取る会(林明治代表、京都市)は、2007年から一、二審と裁判を続ける。抑留は国の戦争政策の結果であるとして政府の謝罪を要求。今年6月、最高裁への上告理由書の中で、特措法の交付金が施行日前に亡くなった人の遺族を除外したことなどを問題にし「内容的にも金額的にも極めてお粗末」と批判した。

 特措法は抑留者の埋葬場所の調査や遺骨の収集と帰還に国の「必要な措置」を求める規定も設けている。遺骨収集はすでに行われているが、法に明文化された。

 「寒いシベリアで日本に帰りたい、と言いながら死んだ戦友の声が耳から離れない」

 福山市北美台、坂井正男さん(89)は、所属していた旧陸軍231連隊の遺骨帰還の活動を続ける。遺族に手紙を書き、厚生労働省に問い合わせをし、これまでに約30体の遺骨伝達に立ち会ってきた。

身元確認は困難に

 身元確認は次第に難しくなっている。国は10年度までに抑留死亡者の遺骨1万8794体を収集したが、DNA鑑定で身元が判明したのは約800体。坂井さんは「遺族もDNA鑑定に積極的に協力してほしい。国内に戻した遺骨を家に帰さないと戦後は終わらない」と訴えている。

 明日は66回目の「終戦の日」。日本人が抑留された現地は埋葬地を特定することさえ困難で抑留はなお未解明の部分が多い。国は遺骨や遺品の収集に努めるとともに、埋葬地の特定など必要な調査を進めるべきだろう。 (編集委員・串信考)

シベリア抑留と遺骨収集
 抑留は1945年8月末、スターリンの指令で実施。第2次大戦で約2700万人が死亡したソ連は国の復興のために日本軍捕虜を利用する目的があったという。抑留者たちは約2千カ所の収容所に送られ、死因の多くは栄養失調。東西冷戦の時代、少数の埋葬地に限って墓参が認められていたが、91年のゴルバチョフ大統領訪日で遺骨収集などに関する協定が結ばれ、92年から本格的に収集が始まった。

(2011年8月14日朝刊掲載)

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