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二葉あき子さん死去 96歳 「フランチェスカの鐘」 広島市出身

「フランチェスカの鐘」「水色のワルツ」などのヒット曲で戦中、戦後の歌謡界をけん引した歌手二葉あき子(ふたば・あきこ=本名加藤芳江=かとう・よしえ)さんが16日午前3時30分、急性心不全のため広島市内の老人保健施設で死去した。96歳。広島市東区出身。自宅は非公開。通夜、告別式は家族で執り行う。喪主は孫加藤英紀(かとう・ひでき)氏。

 広島県立広島高等女学校(現皆実高)を経て、東京音楽学校(現東京芸術大)卒業。県立三次高等女学校(現三次高)で1年間、音楽教師を務めた。

 出身地にちなんだ「安芸」「二葉」を芸名に取り1936年にデビュー。「フランチェスカの鐘」「夜のプラットホーム」「水色のワルツ」などが次々にヒット。淡谷のり子さんや笠置シヅ子さんらと人気を競った。

 1945年8月6日、広島市に原爆が投下された時、乗っていた列車がトンネルに入り直撃を免れた。この体験から「『フランチェスカの鐘』などの曲は、戦争で死んだ人たちへの鎮魂歌として歌っている」と語っていた。

 歌謡曲だけでなく、ブルースやシャンソン、演歌も歌いこなし、生涯のレコーディング曲は約700曲に上った。1982年に紫綬褒章を受章した。


平和への願い 歌声に

 16日に96歳で亡くなった広島市東区出身の歌手二葉あき子さん。自らの原爆、戦争体験を胸に平和を願う気持ちを歌声に乗せ、多くの人に届けてきた。関係者らは「歌謡界、被爆地にとって大きな損失」と死を悼んだ。

 1945年8月6日朝。二葉さんが芸備線で広島駅を離れて間もなく、原爆はさく裂した。父の実家の広島県布野村(現三次市)に向かう途中だった。

 「逃げ惑った被爆者を助けてあげられなくて申し訳ない」―。生前、そう話していた二葉さん。「歌うことが、原爆や戦争で亡くなった人の供養になると考えていたようです」。所属した日本コロムビアの元プロデューサー清水英雄さん(76)=東京都世田谷区=は振り返る。

 1947年の「夜のプラットホーム」は、戦争がもたらす悲しい別れを女性の立場から歌い、多くの人の心に寄り添った。「米寿まで歌い続けた。戦前から活躍した女性歌手では最後の人」。長年にわたる業績をしのんだ。

 古里への愛着も強かった。「仕事の打ち合わせにはいつも広島弁が交じっていた」と清水さん。被爆40年の1985年に広島市内であった平和音楽祭で「祈り舟」を熱唱。原爆犠牲者の鎮魂と平和の希求を込めた。

 「晩年も純真で少女のような人だった」と、ひろしま音楽芸能文化懇話会主宰の上村和博さん(69)=広島市東区。40年近く親交があった。「平和を願った二葉先生の遺志を継いでいかなければ」。かみしめるように語った。(林淳一郎)

(2011年8月17日朝刊掲載)

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