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Peace Seeds ヒロシマの10代がまく種(第16号) 終戦直後を襲った「枕崎台風」 

戦災に追い打ち「途方に暮れた」

 第2次世界大戦が終結して約1カ月後の1945年9月17日、猛烈(もうれつ)な台風が日本列島を襲(おそ)いました。「枕崎(まくらざき)台風」です。暴風雨のため広島県では次々に土砂崩れが起き、被爆から間もない広島市や、急傾斜(きゅうけいしゃ)地の多い呉市、大野村(現廿日市市)などで多くの犠牲(ぎせい)者を出しました。県内全体では2千を超(こ)す人が命を失いました。

 被害(ひがい)が拡大した背景には多くの理由が考えられますが、台風の力があまりに強かった上、戦災により広島の防災体制が弱まっていたことなどが挙げられます。自然の猛威(もうい)は、敗戦後の復興に向けて立ち上がろうとしていた人たちに追い打ちをかけ、苦しめました。

 被爆・終戦70年のことしは、枕崎台風の来襲(らいしゅう)から70年たつことも意味します。広島への原爆投下や市街地への空襲などとともに、その後を襲った自然災害によって、多くの人たちが犠牲になった歴史を忘れてはいけないと思います。

<ピース・シーズ>
 平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲(さ)かせるため、小学6年から高校3年までの49人が、自らテーマを考え、取材し、執筆(しっぴつ)しています。

1945年9月17日 広島県内2012人死亡

 枕崎台風は、45年9月17日夜から18日未明にかけて広島県を襲いました。広島市では最大瞬間風速45・3メートル、最大風速30・2メートル。降り始めからの雨量は218・7ミリで、今の9月の月間雨量(平年)を2日足らずで上回りました。

 「広島県砂防災害史」によると、県内の死者総数は2012人。8割以上が土砂災害の犠牲者です。軍需(ぐんじゅ)産業で急成長した呉市は山際まで住宅が立ち並び、空襲などで山肌(やまはだ)が荒れていたこともあり、1154人が死亡。被爆後の広島市では24人が亡くなりました。

 台風は、戦災から立ち上がろうとする人たちを苦しめました。原爆で母たちを失い、自身も被爆した稲生小菊さん(85)=広島市安芸区=は当時15歳。「途方(とほう)に暮れた」と思い返します。

 段原新町(現南区)の自宅は原爆で崩れたうえ、蔵の中の着物やたんすは、台風の雨と土にまみれて使いものにならなくなりました。台風直後、久芳村(現東広島市)の祖母方に向かおうとしましたが、山陽線は土砂崩れで不通。丸1日かけて歩きました。途中、茶色く濁(にご)る瀬野川沿いでは、盛り土が流され、線路が宙づりになっていたそうです。

 江波山気象館(広島市中区)の学芸員、遠藤正智さん(43)は、大きな被害の理由に、台風の勢力自体が強かった▽終戦直後で全体的に建物が弱かった▽9月の長雨―などを挙げます。17日に発表した、現在の警報に当たる「特報」も、終戦直後の混乱の中で県民には十分に届きませんでした。

 遠藤さんは「原爆の陰で、枕崎台風の被害についてはあまり知られていない。終戦直後を襲った災害にも目を向けてほしい」と話します。(高2岡田春海)

 <枕崎台風> 戦後間もない日本を襲い、各地に傷痕(きずあと)を残しました。1945年9月17日午後2時ごろ、鹿児島県枕崎市付近に上陸。同市で観測した気圧916.1ヘクトパスカルは、戦前に大被害をもたらした室戸台風に次ぐ低い値でした。北東へ進み、宮崎県で最大瞬間風速75.5メートルを記録するなど猛烈な風が吹き荒れました。中国、北陸、東北地方を通過して三陸沖へ。全国の犠牲者は計約3700人に上りました。

土石流 被爆者たちをのみ込んだ

大野陸軍病院跡を訪ねて

 大野村の大野陸軍病院は、背後の山から土石流の直撃(ちょくげき)を受け、156人が亡くなりました。大野歴史ガイドの会の西尾賢二さん(72)の案内で現地を訪れました。

 階段状の斜面に建てた病院には当時、けがをした被爆者約100人が収容されていました。被爆者治療(ちりょう)と研究のため、京都大の医学部教授や物理学者たちでつくる調査班員約40人も滞在(たいざい)中でした。

 9月17日午後10時20分ごろ、病院敷地(しきち)の中央を流れる丸石川で土石流が発生。被爆者と調査班員のいた川沿いの病棟(びょうとう)を一瞬にして破壊(はかい)しました。被爆者の大半と、調査班員や看護師たちが、建物の残骸(ざんがい)とともに、南側の山陽線を越(こ)えて海に流されました。

 京都大は25年後、亡くなった調査班員11人の慰霊碑(いれいひ)を現場近くに建立しました。天に向かって大きくそびえ立つ三角形の四つの壁(かべ)は「人間の復活」を表現しているそうです。碑の周りには山から転がってきた岩を残しています。直径は私の身長を超える約2メートルもあり、手を回しても、届きません。

 犠牲になった156人全員を悼(いた)む慰霊碑も、近くの特別養護老人ホームの敷地内にあります。西尾さんは「水害や原爆で亡くなった人のためにも、みんなが安心して暮らせる社会になるよう祈(いの)りたい。今後も台風被害の事実を伝えていく」と話していました。(高2森本芽依)

当時の天気図 猛威語る

 広島地方気象台で保存されていた当時の天気図と、観測員が書いた当番日誌を見ました。赤茶けた紙に書かれた記録から、枕崎台風の威力(いりょく)を感じることができました。

 天気図を見ると、台風がまるで日本列島を覆(おお)うかのようです。等圧線の間隔(かんかく)が狭(せま)く、力がとても強かったことが分かります。17日午後6時、台風の中心は九州北部にありました。それが翌18日午前6時には北陸の能登半島付近に移動しています。かなりのスピードで中国地方を駆(か)け抜けたことが分かります。

 17日の当番日誌にある台風の記述は3行。18日には勢力と被害について13行にわたって書かれています。被爆間もない状況(じょうきょう)でも、猛威を振るう台風を観測し続けた、気象台職員の責任感が伝わりました。(高1山田千秋)

風速20メートル 恐怖を想像

 江波山気象館で「風速20メートル」を体験しました。枕崎台風のとき広島市で記録した最大風速の3分の2ですが、それでも風の力に自分が負けるのが実感できました。

 体験装置の中に入り、正面の巨大(きょだい)な筒(つつ)から風を受ける仕組みです。風は秒速5メートル、15メートルとしだいに強くなっていきます。最大の20メートルに到達(とうたつ)すると、目と口はまともに開けられず、体が固定されたかのようでうまく動かせません。ゴーッという音だけ。周りの音は全然聞こえません。今回は上半身だけが風を受けましたが、体全体で浴びていたら立っていることも難しいと感じました。

 実際は、雨も降って地面がぬかるんでいる中で、これ以上の強さの風が吹き荒れました。戦争で家が壊(こわ)され、十分な台風対策もできなかったころ。猛烈な風や雨で、人々はさらに恐怖(きょうふ)を味わい、災害に苦しんだのだと想像できました。(中3岩田央)

(2015年8月27日朝刊掲載)

【編集後記】

 今まで枕崎台風の詳しい被害などは全く知りませんでした。ですが、取材をしていくうちに広島に与えた被害の大きさはすさまじいものだったと知りました。原爆と同様にたくさんの人の命を奪った枕崎台風のことも、次世代に継承していかなければならないと感じました。(高2岡田春海)

 実際に豪雨や風を体験したり、当時の日誌などを読んだりしたことで、実感を伴って、被害の様子を想像することができました。体験して学ぶことで、人の気持ちを想像しやすくなります。記憶の継承をしていく上でも、非常に有効な方法だと思います。(高2二井谷栞)

 急な山の斜面と、それに続く長い坂道。昨年、土砂崩れが起きた安佐南区八木と地形がよく似ていました。山津波で転がってきたたくさんの大きな岩が、自然災害の恐ろしさを訴えているようで、多くの人に伝えようという自分の気持ちを強めました。広島で多くの死者がでた枕崎台風について、原爆とともに知ってもらいたいです。(高2森本芽依)

 江波山気象館では、広島に原爆が投下された8月6日の午前6時の天気図も見させてもらいました。広島は高気圧で覆われていて、確実に晴れだったことが分かります。この約2時間後に戦闘機エノラ・ゲイが原爆を投下し、地上で惨劇が起きたと想像すると、胸が詰まります。(高1山田千秋)

 枕崎台風が広島の人々にとってどれだけ強い影響を及ぼしたか、どれだけ勢いの強い台風だったのかということだけでなく、身近な天気や台風の知らないことも聞くことができて、とても勉強になりました。(中3岩田央)

 爆心地から約3.7キロ離れた江波山気象館には、ガラス片が壁に突き刺さった痕がありました。これまで何度も気象館に足を運んでいましたが、気に留めていませんでした。しかし、今回取材して、原爆の威力を感じるとともに、被爆して大変な状況の中でも、観測し続けた当時の気象台の人たちの責任感に驚きました。(中2平田佳子)

 取材の中で印象に残ったのは、京都大の慰霊碑と山から落ちてきた大きな岩でした。慰霊碑の写真を撮る時、すごく後ろに下がらないと全体が入り切りませんでした。大きな岩は背伸びをしても、全然手が届きません。こんな岩がごろごろ落ちてきたのかと思うと、とても私の力では止められないと感じました。(中1川岸言織)

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