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焦土の闇生まれた光 「生ましめんかな」モデル小嶋和子さん70歳

 原子爆弾に十四万人もの命を奪われたあの日から七十年。広島は六日、慰霊の日を迎えた。七十年前の八月、焼けただれた街の片隅で、命懸けで取り上げられた赤子がいた。広島市南区の小嶋和子さん。詩人栗原貞子さん=二〇〇五年、九十二歳で死去=の原爆詩「生(う)ましめんかな」のモデルとなり、復興の象徴になった。七十歳を迎え、「多くの人に助けられて生かされたことに感謝したい」と話す。(浅井俊典)

 夫を十九年前に亡くした和子さんは、長男の大士(ふとし)さん(34)と広島市内で居酒屋を営んでいる。店内には、詩を朗読した女優の吉永小百合さんや綾瀬はるかさんと一緒に写る和子さんの写真。「今ではすっかり有名になったけれど、高校に入るまで自分が詩のモデルだと知らなかったんですよ」と笑う。

 母は胎内被爆した娘を案じてか、原爆のことを語らなかった。十五歳のときに新聞記者が訪ねてきて、初めて聞かされた。

 それからテレビや週刊誌の取材が殺到。でも、あの日のことを覚えているわけでもない。高校生には荷が重すぎた。八月六日が近づくと取材から逃げ回った。

 栗原さんに声をかけられたのは、そんなころだった。「無理に話そうと思わなくていい。あなたが元気でいることが、みなさんを勇気づけることになるんですよ」。穏やかな笑顔に救われた。最近になり、栗原さんの創作ノートなど資料を国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に登録する活動にも関わり始めた。

 和子さんは、原爆投下二日後の八月八日夜に生まれた。母はけが人が避難していた広島貯金支局の地下室で産気づく。被爆して四〇度近い高熱があった助産師の女性が名乗り出て、和子さんを取り上げた。へその緒は裁縫ばさみで切り、焼けたトタンをたらいにして産湯につからせた。

 著書「どきゅめんと・ヒロシマ24年」によると、近所の人からその話を聞いた栗原さんは、地下室の出来事がまるで宗教画のように感じられ、ひと息に詩を書きつけたという。

 詩で死んだことになっている助産師の女性は戦後も生きていた。「とても動ける状態ではなかったが、本能的に『生ませんといけん』と思った。生まれたときは暗がりに光が差し、みんな痛みに耐えて喜んだ」と和子さんに語ってくれた。

 いま詩を読み返すとき、和子さんは母を思う。原爆が落ちて周りは重傷者ばかり。医療設備など何もない。地獄の底のような地下室で、不安を押し殺して自分を産んでくれた母を想像すると涙があふれる。

 六日は学徒動員の作業中に被爆し、十二歳で亡くなった姉の学校慰霊祭に出席した。「和子」という名は妹の誕生を楽しみにしていた姉が考えてくれた。「私の旧姓は平野で、平野和子。ほら、名前に『平和』の二文字が含まれるでしょ。生まれたときから運命は決まっていたのかも」。和子さんはあす七十歳になる。

栗原貞子(くりはら・さだこ)
 1913年、広島県生まれ。45年8月6日、爆心地から約4キロ離れた自宅で被爆した。「生ましめんかな」は翌46年に発表。詩を通じて原爆の非人道性を訴えた。著書に、詩集「黒い卵」や「私は広島を証言する」などがある。

(中日新聞社2015年8月7日朝刊掲載)

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