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連載・特集

大和ミュージアム開館10周年シンポ・特集 終戦70年を語り継ぐ 不戦を歴史に学ぶ 呉

 広島県呉市の大和ミュージアム開館10周年を記念するシンポジウム「終戦70年を語り継ぐ」が8月29日、市文化ホールであった。日露戦争から太平洋戦争、戦後にかけての日米関係、戦艦大和など大型艦船を次々建造した「大艦巨砲主義」の背景をテーマに、同館の名誉館長で作家の半藤一利氏、熊本県立大理事長の五百旗頭真氏、同館の館長戸高一成氏が意見を述べた。司会進行は東京工業大教授の池上彰氏。自治総合センターと実行委員会の主催。約1600人が聞き入った。(文中敬称略)

大艦巨砲 「日露」が転機
館長 戸高一成氏

占領政策 知日派が寄与
熊本県立大理事長 五百旗頭真氏

太平洋戦争 無謀だった
名誉館長・作家 半藤一利氏

司会 東京工業大教授 池上彰氏

 池上 戦後70年、8月15日が何の日か知らない若者も出てきています。日露戦争当初、日米の関係は悪くなかった。やがて両国が互いを仮想敵とみなし戦争に突入する。対立点はどこにあったのでしょうか。

 半藤 明治以降、日本は米国に留学生を送り優れた技術を取り入れ、互いに信頼していた。日露戦争で日本は戦争前から戦争終結を考えており、米の仲介で講和に持っていこうと考えていた。太平洋戦争では戦争終結を全く考えず、始めることだけ考えていた。

 良好な関係が駄目になったのは、日露戦争で日本が勝ちすぎたから。日本海軍がロシアのバルチック艦隊をたたきのめし、世界が驚く成果を挙げた。勝利を土台に大国にしようと、強い海軍をつくる国家目標を掲げた。だが日本には資源も国力もない。日露戦争後に満州の権益を拡大していくと米国の反感を買った。

 日本は軍備を整える目標として米国を仮想敵国とした。戦艦建造を制限するワシントン海軍軍縮条約は財政難の日本には渡りに船だったが、海軍には米国の策略と考え米国を真性敵国とみる雰囲気が生まれた。米国も対日戦争方策を作り互いに敵視を強め、昭和に突入していく。

 池上 太平洋戦争で日本が戦争の終わり方を考えていなかった理由は。

 半藤 日本はドイツが勝つという前提だった。日本には自力で戦争をやめる方法論が開戦時になかった。怒る方もいますが「太平洋戦争は無謀だった」と言わざるを得ない。

無理な要求応える

 池上 ワシントン海軍軍縮条約で戦艦建造が制限された後、日本は大和、武蔵、信濃を造っていく。大艦巨砲主義はどんな経緯で生まれたのでしょう。

 戸高 大艦巨砲主義は戦前の海軍戦術のキーワードでした。最初からではなく、日清戦争のころまでは、自艦を相手にぶつけて沈めるようなことをしており、海上戦闘の戦術を試行錯誤していた。転機は日露戦争の日本海海戦。一定の距離を取り相手を大砲で撃沈して、壊滅的な勝利ができると世界が注目した。

 日本は経済力や産業の大きさで全くかなわない米国を仮想敵にした。数的にかなわないから、絶対負けない戦艦を少数持つ発想だった。太平洋と大西洋に面する米国はパナマ運河を通れる規模の艦を無理なく必要な数だけ造った。「絶対沈まない」という無理な要求に技術者が応えて造ったのが大和でした。

 池上 太平洋戦争から始まる米国の対日戦略は。

 五百旗頭 戦前の日米関係は3段階。日露戦争までは「初期友好」で、米国は近代化する日本を見守る先生役。日露戦争後、米国は日本海軍がフィリピンに向かったらどうなるか考え、「協調と対抗」が入り交じる関係になる。30年代以降は「対決」。満州事変を受け、米国は日本に「不承認政策」をとった。軍事介入せず「認めない」は痛くもかゆくもなく、日本は軽く見て突き進んだ。

 日本は「新しい力による現実を認めよ」。一方、米国は「力による一方的支配は認めない」。ともに原則は譲らなかったが戦争はしたくなかった。1941年11月、「ハル・ノート」を出す前、米国には国内の生産力向上を待って戦争に踏み切るべき▽せめて3カ月の暫定協定で時間を稼ぐべきだ―との声があった。日本も「米国と戦っても勝てない」との結論だった。しかしハル・ノート最終案に妥協の余地はなかった。もし12月8日の真珠湾攻撃を少し遅らせられたら、日本は大戦に参戦し敗戦を迎えることはなかっただろう。攻撃の4日前、ドイツはモスクワで敗退し、終末点を迎えていた。

相手を知る大切さ

 池上 米国の対日政策は戦後の占領政策にどうつながっていくのですか。

 五百旗頭 米国には日本占領案が二つあった。世論の支持が高かったのは無条件降伏。軍事的に壊滅する「国家壊滅」「民族絶滅」だが、さすがに政府内で通らなかった。もう一つは日本を平和的、民主化した国として国際社会に復帰させる案。占領下で民主化を進める中で、知日派は天皇の影響力や実績を主張し、日本の官僚機構も温存した。

 なぜ米国は、日本を徹底的に壊滅せず、ポツダム宣言で条件を出し包囲するという形にしたのか。日本が硫黄島や沖縄で激烈な抵抗をし、米国は多くの犠牲を出した。無条件降伏を目指して血なまぐさい戦いを続けたら、米国の若者の血をさらに流すことになる。日本では徹底抗戦の声は強かったが、天皇の聖断という形で受け入れた。日米は死闘を繰り広げたが、その後は意外にきれいな友好関係を70年も保っている。

 池上 相手を知ることがいかに大切か。米国は日本をよく研究、うまく占領政策をやった。日本はどうやって戦争を終わらせようとしていたのでしょう。

 半藤 日本は当時、無条件降伏以外に戦争終結はないと心得ていた。45年4月に沖縄戦が始まり、本土にも迫っている。そんな時に鈴木貫太郎内閣が発足した。かつて侍従長を務めた鈴木は天皇との信頼関係があり、戦争終結を託された。だが陸軍がクーデターを起こす恐れもあった。当時は戦争の開始、終結の大権は天皇にあり、内閣が一致した方針を承認、裁断する手続きだった。鈴木は死を覚悟して天皇にまず裁断を求め、それを内閣で相談し受け入れ、国策とする手法を考え出した。

 陸軍はクーデター計画をひそかに練った。御前会議の前の閣議で和平派の閣僚を拉致し、新しい体制をつくる計画。察知した鈴木は8月14日、昭和天皇による御前会議を皇居で開くように画策した。陸軍も皇居には押し入れない。鈴木が最後にした離れ業だ。「和平に賛成」との聖断を受け、すぐに閣議で国策として決めた。日本の終戦はぎりぎりで成功した。戦争は始めるのは簡単だが、終結はいかに困難か。教訓となる。

 池上 大和が最後の特攻に出撃した理由は。

 戸高 最大戦力がのうのうとしていいのかという意見が背景にあった。特攻に意味がないのは明らかだったが、海軍として最後の力を振り絞ったという形が必要だった。予想通り大和は沖縄に着けずに撃沈される。鈴木内閣組閣の4月7日に。大和は終戦を進める力になっただろう。

 池上 戦後、日米関係は良くなりました。

 五百旗頭 多数の死者を出し、日本への敵意が高まった。ただ、対日占領政策を決めるのは少数の人に任された。日本をよく知っている人でなくてはいけないという枠組みをつくった。激烈に日本を批判する人は選ばれなかった。

 池上 若者が学び考えるべきこと、なすべきことは。

 半藤 「新しい国家をつくって70年」と戦後70年を心の中で言い換えている。憲法9条を軸に専守防衛の国家をつくり、世界的な信頼を生んでいる。戦後70年は「建国70年」。80年、90年と若い人に続けてほしい。

 五百旗頭 普通、戦後体制は10年。第2次大戦後すぐ米ソ冷戦に組み替えられ戦後への対処と冷戦への対処が絡み合った。冷戦が90年に終結し振り出しに戻った。米ソの仕切りが外れ、民族や宗教の紛争といった問題が出てきたのがその後の20年。戦後をもう一度やり直さなければならなかった。失われた20年の日本を再生させるため若い人に期待したい。

 戸高 当時を知る人が減り、戦争が体験として語られる時代から歴史として語られる時代になる。70年の節目のことしは、歴史としての戦争を学ぶ最初の年。ミュージアムの役割は重要になる。

とだか・かずしげ
 48年、宮崎県生まれ。多摩美術大卒。92年、財団法人史料調査会理事。99年、「昭和館」図書情報部長。04年、呉市企画部参事補に就任し、05年から現職。著書に「戦艦大和復元プロジェクト」「戦艦大和に捧ぐ」など。

いおきべ・まこと
 43年、兵庫県生まれ。広島大助手・講師・助教授(政治史・外交史)、米ハーバード大客員研究員、神戸大教授などを歴任。06~12年には防衛大学校校長を務めた。12年から現職。文化功労者。

はんどう・かずとし
 30年、東京都生まれ。東京大文学部卒業後、文芸春秋に入社。「週刊文春」編集長などを経て作家。「漱石ぞな、もし」で新田次郎文学賞。代表作に「日本のいちばん長い日」「ノモンハンの夏」「山本五十六」など。

いけがみ・あきら
 50年、長野県生まれ。73年にNHK入局。呉通信部などを経て報道局社会部。94~05年には「週刊こどもニュース」キャスターで人気を博す。05年に独立後はジャーナリストとして活躍。12年から現職。

(2015年9月5日朝刊掲載)

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