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連載・特集

民の70年 第2部 歩んだ道 <3> 食品公害

国・企業 救済策で後手 ヒ素ミルク 乳児に被害

 1955年、森永乳業の粉ミルクに混入したヒ素が原因で、西日本一帯の乳児に被害が広がった。岡山市北区の岡崎久弥さん(52)は、被害者の姉ゆり子さん(2000年に45歳で死去)の苦しむ姿を見て育った。

 物心ついた頃、7歳上の姉は中学生。急に卒倒したり、「頭が割れるように痛い」とうめき声を上げたり。ヒ素は脳の神経を傷つける。視力も極端に悪かった。患者特有の皮膚の黒ずみがおでこに残り、髪で隠していた。努力して小学校教諭になったが、がんで亡くなった。やり場のない悔しさに病床で涙していた。

世間「金目当て」

 医療関係者が異常を察知しながら公表が遅れた間に被害が広がり、1年間で130人が死亡した。父哲夫さんは被害者救済運動の先頭に立った。

 当初は岡山市内で抗議デモが起こり、社会の関心も高かった。だが、厚生省が設置した第三者委員会が「後遺症の心配はほとんどない」と主張して潮目が変わった。父たちが補償額の少なさを指摘すると、世間は「金目当て」と批判した。運動をやめようと弱音を吐く母に、軍隊経験のある父は「不正がまかり通れば、戦前の暗黒時代に逆戻りだ」と一喝したらしい。

 発生14年後に転機が訪れる。学会で後遺症を指摘する発表が注目され、救済運動が本格化した。

 被害者団体「森永ミルク中毒のこどもを守る会」の本部が置かれた自宅には、100人近い記者が詰め掛けた。小学生の私も電話番に追われ、不買運動の看板作りも手伝った。

 広島県内での調査から後遺症との因果関係が証明され、森永側は患者に生涯にわたって補償金を払う恒久救済案に合意した。だが、補償内容などをめぐり被害者の間で意見が割れ、父は運動の中心から離れた。私も組織や運動の在り方に嫌気が差して距離を置いた。

 姉が亡くなった5カ月後、父は事件に関する膨大な資料を残して他界した。

 「語り継いでくれ」と頼まれていないし、被害者の身内として、そっとしておいてほしい気持ちもある。だが、史実や被害者の情念を後世に伝えないと、悲劇は繰り返される。そんな危機感から5年前、自宅の一角に資料館を開いた。未認定患者も相談に来る。被害はまだ埋もれている。

事件の構図 今も

 事件後、国は食品添加物の規制を強化した。一方で、父は「国や医学界が企業の不正を見逃した教訓を忘れてはならない」と警鐘を鳴らし続けた。

 薬害エイズ事件もそうだった。福島第1原発事故でも、国が事故の影響を小さく見せ、企業の負担を減らす役割を担っているように思う。森永事件が形を変え、現代にも繰り返されていないか。(馬場洋太)

<森永ヒ素ミルク中毒事件の経過>

1955年6~8月 西日本一帯で乳児に原因不明の病気が発生
       8月 岡山県が森永乳業の粉ミルクによるヒ素中毒と発表
      12月 厚生省の第三者委員会が死者25万円、患者1万円の補償
          額と「後遺症の心配はほとんどない」とする意見書を発表
  69年 10月 大阪大の丸山博教授たちが学会で「ヒ素ミルク被害者に後
          遺症」と発表
  72年 12月 「森永ミルク中毒のこどもを守る会」が不買運動を決定
  73年 11月 森永乳業徳島工場の元課長に禁錮3年の実刑判決。翌月
          に確定
      12月 国、守る会、森永乳業の三者が救済方針で合意

食品をめぐる健康被害
 1955年の森永ヒ素ミルク中毒事件と68年のカネミ油症事件が被害規模から2大食品公害とされる。ヒ素ミルク事件は広島、岡山両県などで約1万3千人に被害が拡大。食用油にポリ塩化ビフェニール(PCB)やダイオキシン類が混入したカネミ油症事件では、山口県などの約1万4千人が健康被害を訴えた。

 両事件を教訓に国は食品の法規制を強化した一方で、雪印乳業集団食中毒事件(2000年)や中国製ギョーザ中毒事件(08年)などが起きた。

(2015年9月10日朝刊掲載)

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