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社説・コラム

「安全神話」復活はならぬ 

■編集局長 江種則貴

 きょう東日本大震災から4年半。家族を失い、復興が遅れ、これだけの歳月を経ても「日常」を取り戻せない被災者の人たちの心痛はいかばかりか。

 被爆地にとっては、ふがいなさを感じる4年半でもあった。東京電力福島第1原発の事故で汚染され、住み慣れた古里を離れた人々に、私たちは何を伝えることができたのだろうか。

 放射線被曝(ひばく)を不安がる福島の人たちに「心配しなくても大丈夫」と言いたくなる。だが原爆がもたらした健康影響をめぐり、広島と長崎が蓄積してきた知見をもってしても、低線量や内部被曝の影響はいまだ分からないことばかり。単なる気休めなら口にすまいと、つい黙り込んでしまう。

 きのう、鹿児島県の九州電力川内原発が営業運転に入った。福島の人たちは、どう受け止めるだろう。この4年半は何だったのかと、やるせなさを覚える人が少なくないはずだ。

 川内原発が事故を起こすリスクがゼロではないことは、新基準に適合するとのお墨付きを出した原子力規制委員会も認めている。つまり誰もが100パーセント安全だとは言い切れないのに、川内原発は再び動きだした。

 「安全神話」が復活したのだと断じざるを得ない。たった4年半で、3・11の記憶はこれほどまでに、薄らいでしまうものなのか。

 政府や電力業界は原発再稼働を推し進める理由として、しばしばコストや温暖化ガスの問題を挙げる。

 では、核のごみ(高レベル放射性廃棄物)の最終処分地さえ決まっていない現状で、なぜ原発が低コストだと言えるのだろう。後の世も環境汚染に苦しめられる心配は全くないと、いったい誰が保障してくれるのだろう。

 政府が諦めようとしない核燃料リサイクル政策も頓挫が続く結果、被爆国が核兵器の原料にもなるプルトニウムをためこむ始末となった。だが、核拡散の危険こそ、世界情勢を不安定化してきた大きな要因の一つではなかったか。

 原発は「原子力の平和利用」と呼ばれてきたが、私は「商業利用」への言い換えを心掛けてきた。軍事ではないから平和、ではなかろう。安心、安全な日常の暮らしを通じて、私たちは平和を実感してきた。今の状況を見る限り、とても「平和利用」とは言い難い。

(2015年9月11日朝刊掲載)

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