×

社説・コラム

裏方で支えた「運動」人生 反戦・反核に奮闘の吉川勇一さん 東京でお別れ会

 「ベトナムに平和を! 市民連合(ベ平連)」の元事務局長で、5月に84歳で亡くなった吉川勇一さんは、初期の原水爆禁止運動を裏方で支えた人でもある。6日、東京であった吉川さんの「市民葬・お別れ会」には、ベ平連に先立つその活躍を知る人も駆け付け、しのんだ。

 英語に強く、多くの訳書も残した吉川さん。20代半ばから関わった原水禁運動では、世界大会の通訳団を取り仕切った。

 「10カ国以上の代表が集う国際会議を市民団体がやるなんて初めて。通訳をどうするかは最も難題で、吉川さんなしには乗り切れなかった」。ともに活動した元日本原水協事務局員の山村茂雄さん(83)は振り返る。

 1955年の第1回大会を前に在京の大学生にアルバイトの募集をかけ、70人を選抜。3週間の猛特訓で通訳に仕立てるなど奮闘した。「こんなにも忙しい人間がいるのかと驚いた」と、第4回まで通訳を務めた広島市出身の森百合子さん(79)。「裏方の大切さも教わった」。後にプロの通訳になる原点となったという。

 吉川さんが関わったのは第10回大会まで。その後はベ平連に活動の場を移し、ベトナム戦争に反対する広範な市民の運動を支える。規約のない自由な運動体を、10円の寄付にも領収のはがきを送る律儀さで引き締めた。お別れの会で仲間が口々に語った「官僚的」「カリスマ性ゼロ」といった人物評は、絶大な敬意と感謝の表れだ。

 2007年から09年にかけ、民間の研究所による初期原水禁運動の聞き取りが行われ、私も参加した。締めくくりの座談会で、吉川さんは述べている。

 「私が20歳ごろからやってきた運動は結局失敗だったね、とは思います。イラク、アフガンなどの戦争まで、戦争だけで何度あったことでしょう。運動の人生は失敗してきたなとは思うけれども、それでももう一回、機会があったら同じことをやっているんじゃないかと思うんですね」

 お別れ会の合間に、参加者は安全保障関連法案に反対するデモに繰り出した。横断幕上で遺影になった吉川さんが、一緒に歩く。やっぱり同じことをやっている。(道面雅量)

(2015年9月12日朝刊掲載)

年別アーカイブ