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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 舛井寛一さん―末期の水 今も自責の念

舛井寛一(ますい・かんいち)さん(91)=広島市西区

極限状況 人間は鬼にでもなる

 「人間は極限(きょくげん)状況に置かれたら、鬼(おに)にでもなる」。舛井寛一さん(91)は、被爆直後に路上で瀕死(ひんし)の少年から水を求められながら、何もできなかったことを70年後の今も悔(く)やんでいます。

 4人兄弟の長男で、1945年当時は21歳。爆心地から4キロ以上離れた宇品造船所(現広島市南区)に勤務していました。会社から、8月6日は建物疎(そ)開(かい)作業に出るよう言われていました。

 その朝。自宅近くの福島町(現西区)で路面電車に乗りました。ところが、うとうとしたまま、降りるはずだった白神社前を通過。次の停留所で降りる気にもなれず、会社へ行ってしまったのです。

 現在の工学院大(東京都)で学び、上陸用艦艇(かんてい)の設計を夢見ていました。「建物疎開なんて、という反発心はあった」。作業するはずだった大手町は爆心地近く。偶然が生死を分けたとしか、いいようがありません。

 少々気まずい思いで机に着いて間もなく、ものすごい光に襲(おそ)われました。続いて、ごう音。飛んできた窓枠(わく)に倒(たお)され、頭から大量に出血しました。

 「米軍が照明弾(だん)を落としやがった」と思ったそうです。防空壕(ぼうくうごう)でけがの応急処置を受けた後、帰宅命令が出ました。市中心部に自宅があるという1歳下の同僚(どうりょう)、中倉久美子さんと一緒に歩きだしました。被害(ひがい)が想像を絶していることに、すぐ気付きました。ひどいやけどの負傷者が列をなして逃げてくるのです。

 悲惨(ひさん)な光景(こうけい)に恐怖(きょうふ)を感じながら、市役所の近くまで来たときのこと。倒れた電柱にへたり込んでいた少年が消え入りそうな声で訴えてきました。「水が欲しい」

 水筒(すいとう)代わりに水を詰(つ)めていたビール瓶を携(たずさ)えていました。「思わず後ろ手に隠(かく)し立ち去った」

 火勢(かせい)に阻(はば)まれ、その日は引き返さざるを得ませんでした。ビール瓶の水には口を付けずじまい。「自分も命懸(いのちが)けとはいえ、末期(まつご)の水をあげる仏心ぐらい…」。8月6日になると思い出し、涙が出るそうです。

 翌日、おびえて震(ふる)える中倉さんを一人にできず、家族を捜してあげました。「まさに地獄(じごく)のようだった」広島赤十字病院で、中倉さんの母とおいを見つけました。自宅にたどり着いたのは、その後。家族は、けがをしながらも無事でした。

 「被爆する前から、たくさん苦労していた。父譲りの一本気な性格で乗り越えた」と振(ふ)り返ります。父は23年に、部落差別に反対する運動団体の広島県水平社を結成した一人。弾圧(だんあつ)を受け、一家の生活も楽ではありませんでした。さらに原爆で家を失い、バラックから生活を再建しました。

 「あの日」の5日後、母を亡くしていた中倉さんと結ばれ、終戦の翌年には両親や兄弟と小さな精肉店を開店。食肉卸(おろし)会社「マスカン」へと大きく育てました。

 体験や思いを孫に残そうと、被爆体験を手記にしましたが、人に話すことはありませんでした。それでも今年、「被爆80年の時には101歳になる。今伝えなければ」という心境になり、かつて会長も務めた広島ペンクラブなどで語り始めています。

 母、妻、2人の弟はがんで亡くなり、自分も甲状腺に腫瘍(しゅよう)のある身。「戦場ではなく、市民が住む所にあんな爆弾を使った米国の責任は問われるべきだ」と言い切ります。「原爆被害に苦しみながらも、市民が焼け野原から立ち上がったから、『70年間草木も生えない』と言われた広島の繁栄(はんえい)がある」。若い人に知ってほしいと願っています。(金崎由美)

私たち10代の感想

今しかできぬ役目 実感

 爆心地近くで電車を降りるはずだったのに、居眠(いねむ)りしたため命拾いしたそうです。「決して楽しい体験ではない」から今まで話さなかったと言います。91歳(さい)まで生きてきた舛井さんと会って、体験を聞くことができました。ジュニアライターには、今しかできない役目がたくさんあると感じました。(中1目黒美貴)

心に残る傷の深さ知る

 被爆直後、一人の少年から水を求められたのに飲ませてあげず、70年後の今も後悔(こうかい)しているそうです。「原爆は人を極限まで追(お)い詰(つ)め、鬼(おに)にも変える」という言葉が胸に刺(さ)さりました。若々しく豪快(ごうかい)にみえる舛井さんの目に涙(なみだ)が浮(う)かんでいるようでした。原爆の心の傷はそれだけ深いと知りました。(高1坪木茉里佳)

強く生きる姿学びたい

 子どものころ親戚(しんせき)の店に住み込んで働いたことや、原爆で家を失い近所の人に助けてもらった体験を振(ふ)り返り、「どんな苦労も無駄(むだ)にならない」と話していたのが印象的でした。強く生きてきた91歳の舛井さんから僕(ぼく)も学びたい。つらい体験を乗(の)り越(こ)えた人たちが広島を再建したのだと実感しました。(高2岩田壮)

(2015年10月12日朝刊掲載)

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