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連載・特集

毒ガスの島70年 忘れ得ぬ記憶 <4> 被害者の決意

責務背負い体験伝え

 大久野島(竹原市)で毒ガス製造に携わった元工員や動員学徒たちの平均年齢は87歳になった。当時の体験を語りたがらない被害者も少なくないが、封印したはずの記憶を解いた人や伝え続けようと決意した人もいる。戦後70年。戦争について考えようともしない人が増えているのではないか―との危機感に駆り立てられるという。

 大阪府吹田市の住宅街に暮らす伊藤大二さん(91)は宇部市の高校を出て、18歳から21歳まで大久野島の旧陸軍毒ガス製造工室で働いた。実験や実用化を担う化学工だった。

製造責任誰に

 「製造の責任は誰にあるんですか」。真っすぐ自分を見つめた子どもの目が忘れられない。2010年、自宅近くの小学校で島での体験を語り、質問を受け付けた時のことだ。純粋な問い掛けにたじろいだ。「申し訳ないことをしました」と声を絞り出すのがやっとだった。

 戦後は大手メーカーなどに勤め、仕事に打ち込んだ。誰にも過去を話さず、島で作業をともにした元同僚との交際も断った。「非人道的な兵器を造ってきた」との負い目があったからだ。全てにおいて戦争勝利が優先された時代だったと言い訳できるかもしれない。だが製造に加担した事実は消せない。

 「あの子の言葉で覚悟が決まった」と伊藤さん。数分も話せば激しくせき込み、たんがのどにからむ。7種類ある薬は手離せない。それでも体験を語ってと頼まれれば必ず出向く。「毒ガス工場で働いた人間の責務じゃと思うとりますから」。工場で働いていた頃の資料は1年近く前、竹原市に寄贈した。

 既に遺言を書いた。葬儀は不要、遺骨は大久野島周辺の海にまいてほしいと。戦勝を念じてひたすら働き、青春の一時期を過ごした島。永遠に眠る地はそこだと決めている。

絵の力信じる

 三原市の元美術教師岡田黎子さん(86)は、自費出版した画集を繰り記憶をたどった。1944年11月から動員学徒として島で働き、風船爆弾製造に携わったという。

 画集は4冊あり、毒ガスの濃縮原料を保管庫から取り出す様子など作業風景を載せている。89年に第1作、2010年に第4作を出した。学校で体験を語ったとき、子どもたちの反応が乏しかったのがきっかけという。

 伝えなければならない。何を伝えるか。自分が伝える一番良い方法は―。自問を重ねた末の結論が絵画での表現だった。「体験を語る言葉も大切。でも私は1枚の絵が訴える力を信じたい」と力を込める。(山下悟史)

毒ガス製造体験などの継承活動
 1988年に大久野島に開館した毒ガス資料館で初代館長の故村上初一さんが修学旅行生たち平和学習に訪れた児童や生徒に体験を語っていた。96年春に村上さんが館長を辞任してからは組織的な証言活動は事実上途絶えている。現在は依頼があれば、毒ガス障害者の団体や市民グループが証言したり、大久野島のガイドを引き受けている。

(2015年10月17日朝刊掲載)

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