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連載・特集

2001被爆者の伝言 沈載烈さん (下) 死ぬ前に韓国で援護法を受けたい

沈載烈さん(75) 韓国釜山市

  ▽96年 県に審査請求

 韓国に帰ったら(被爆者健康)手帳は何の役にも立たない紙くずです。日本の支援者から「抗議してみないか」と言われ、よし、日本政府を突っついてやろうと。わし自身のためじゃなく、在韓被爆者全体のために抗議しようと思いました。

  被爆者援護法に基づく健康管理手当が日本滞在中しか受け取れないのは不当として、渡日治療から帰国後の一九九六年五月、行政不服審査法に基づき広島県に審査請求した。県の請求却下を受け同年八月、厚生省(当時)に再審査請求したが 却下された
 一回ぐらいの抗議では変わるわけないし、期待もしていませんでした。厚生省に意見陳述したけど、体裁を整えるため、しょうがなくやっているようでした。深刻に受け止めてくれんかった。

 政府は、在韓被爆者の死滅を望んでいるとしか思えん。生きとる間に、わしらに援護法が適用されるとは思えませんね。

  同様の訴えに対し、大阪地裁で今年六月、在外被爆者の援護法適用を認める判決があった。政府は控訴すると同時に、援護法の見直しを表明している
 あの判決は本当に歓迎したい。広島市も渡日治療を検討していると聞きました。うれしいですけど、もう遅すぎます。本当に治療が必要な被爆者は日本に来れんから。

  ▽訪韓し手帳発行を

 韓国原爆被害者協会の二千三百人ぐらいの会員で、手帳を持っているのは六百人ぐらい。手帳が欲しいけど来日すらかなわん被爆者に、広島、長崎市が韓国に行って審査し、手帳を発行してくれんだろうか。

 協会には、親せきに誘われ七五年に登録した。その時、ダンプカーの運転手でした。月に一、二日しか休みがなく、やっと飯が食える生活でしたから、協会には寄りつかんかった。何の足しにもならんでしょう。

 韓国では、祖国解放を早めたと原爆投下を歓迎する人が多かったから、被爆したことは黙ってるもんです。たまに話せば、悲惨と思われるより、珍しがられます。

  協会釜山支部で八九年から六年間、総務の仕事に携わる。会員と連絡を取り合いながら、生活に困窮する在韓被爆者の現状を見つめてきた
 子どもが全員結婚した後、入会する人も多かった。広島でも隠している人が多いんでしょう。でも、被爆の後遺症を知らない人もいる。わしも初めて渡日治療に来た八三年まで知らんかった。

 自分の子の支援がなければ、老いた韓国の被爆者は生きていけん。病弱で子に教育を受けさせられんかった人ほど困っています。妻も子もおらん一人ものは、生活保護を受けてもやっと食うだけの生活です。想像できんでしょうよ。

 怒りはもう、慢性化しました。願うのは一回でいい、死ぬ前に差別なく援護法を受けてみたい。ただ、それだけです。

(2001年7月23日朝刊掲載)

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