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連載・特集

2001被爆者の伝言 中谷玉江さん (上) 両親に「ごめんなさい」言えんかった

中谷玉江さん(69) 広島市中区江波東

 逃げとったよね、原爆から。若いころ、夏になるといつも思ってた。やけどしてなかったら、腕や足のケロイドもなかったのにって。自分がみじめで、大人社会で胸を張って歩けると思えんかった。外見を気にして、憶病だった。

 進徳高女(現進徳女子高)二年の時に被爆、十三歳だった。爆心地から約一・四キロの中区南竹屋町の校庭で、建物疎開に行くため集合する最中だった

 被爆前の学校生活は楽しかった。空襲警報で机の下に隠れると、みんなでひそひそ話をするの。自分の救急袋から非常食のいり大豆を取り出して交換したりね。つまらんことでも楽しんでた。戦時下で苦しかったはずなのに不謹慎よね。

 ▽友達誘った瞬間に

 あの日は江波の夏祭りで、母が「ばらずしを作るから、仲良しの友達を連れてきんさい」って言ってくれた。うきうきして、校庭の朝礼台のそばで、「作業が終わったら家へ行こう」と友達を誘ってた瞬間でした。

 広島陸軍被服支廠(南区)に逃げ延び、翌日夕、捜しに来た父と兄に助け出された
 父は「よう待っとってくれた」とむせび泣いて、母から託された嫁入り布団で火ぶくれた私の体を包んでくれました。

 昭和二十年末までやけどは治らず寝たきりで、両親は不眠の看病を続けてくれた。やけどの消毒は一日三回。うみをふき、自家製の薬を塗り込んで、動かなくなった両手をマッサージしてくれて…。母はどんなに疲れていても、私が起きている間は寝なかった。

 十四歳の誕生日にこんなこともあった。布団の上に座れたので、鏡で自分の顔を見たくて母にねだったの。「ピカで全部壊れた」て言ったけど真っ赤なうそ。歩けるようになって初めて分かった。丸坊主でやけどの跡が残る顔を見せたくない、母の心遣いだった。

 広島女子短期大(現県立広島女子大)に進学。五二年に卒業して、市内の小学校で教職に就いた

 ▽時に八つ当たりも

 普段は明るいんよ。でも夏にノースリーブの服を着た人を見たり、体調が悪くて学校を休んだりするとね、腹が立って両親に八つ当たりしてた。「私がかわいかったら、あの時連れ帰ってこんはずよ。親のエゴで、おもちゃのように勝手に生かして。放っておいてくれたら死んでこんなに苦しまんかったのに」って。

 一睡もせずに捜してくれた父、夜通しうちわで風を送って看病してくれた母に、何度こんな言葉を浴びせたことか。我慢強い母もふろをたきながら、声を殺してすすり泣いとりました。どんなに拝んで、感謝してもし尽くせん両親に…。

 腎(じん)炎を患い、人工透析に週三回通い始めて七年。両親が亡くなった年に近づいてきました。二人の月命日に手を合わせると、当時「ごめんなさい」と言えんかった後悔が、今も心に突き刺さってきます。

(2001年7月26日朝刊掲載)

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