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連載・特集

『生きて』 核物理学者 葉佐井博巳さん(1931年~) <4> 被爆

死の世界歩き友みとる

  1945年8月6日の瞬間は、学徒動員された旭兵器製作所(現廿日市市地御前)で体操をしていた
 上半身裸となり、工場内の広場で始業前の準備体操をしていたらパッと光った。空間が真っ白くなるという感じ。思わず見上げると、ちぎれ雲が広島市の上空からものすごい速さで来る。眺めていたら工場のガラスがガタガタ鳴りだした。

 原爆の衝撃波は、爆心地から4キロには10・16秒で届いた計算です。旭兵器は約15キロなので30秒はたっていたでしょう。同級生は「ドカーン」という音を聞いたと手記に表しているが、私は聞き分けていません。

 近くの山へ待避して2、3時間いたと思うが、時間的な感覚はなくなってしまった。下山すると今の国道2号をほこりと汗まみれの人たちが歩いてきた。やがてトラックで負傷者が運ばれ、私らは降ろすのを手伝った。夜は工場診療所の廊下で雑魚寝。広島の空は真っ赤に染まり、診療所では亡くなる人が続きました。

 市内からの者は翌朝、同じ地区ごとに帰ってもいいとなった。宮島線の荒手車庫(現西区の商工センター入口)まで乗ったと思う。そこからは歩いた。己斐からは路面電車の軌道沿いに原爆投下の照準点となった相生橋、八丁堀を抜け、白島線終点そばの逓信病院で解散、10人は一緒だったでしょうか。着いたのは昼すぎ。

 川には死体が無数に浮かび、牛や馬も腹が膨れていた。人影はまばらでしたが、道で倒れている死者の腕時計を1人ずつ見ている人がいた。級友は、相生橋近くに米兵捕虜がいて石が投げられていたというが、記憶にない。それぞれに違う。原爆の恐ろしさだといえるかもしれません。

 今の西白島町で一緒に住んでいた母千尋と四つの妹絢子(あやこ)は無事でした。焼け残った大家さんの別荘に長屋の皆と逃げていた。

 そこへ幼なじみが大やけどで帰ってきた。私も付き添いました。三吉敏文さんといい市中(現基町高)の3年生。彼はものすごい死に方をした。「海行(ゆ)かば」を歌って「天皇陛下万歳」と最期に言った。市中1年の弟正治さんは行方不明で妹の淳子さんも原爆死。被爆の瞬間、彼女と一緒に遊んでいた絢子は重複がんに見舞われ50歳で死にました。

(2015年11月14日朝刊掲載)

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