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連載・特集

『生きて』 核物理学者 葉佐井博巳さん(1931年~) <5> 戦後

自らが考え行動に移す

 原爆と敗戦で未曽有の混乱に陥った広島で戦後を歩み始めた
 校舎が全焼した一中(現国泰寺高)へ行くと、1年生たちが無残な姿で倒れており、桑田清教頭が「自分だけが助かった」と大八車を引き、遺体を集めておられた。その教頭も亡くなられました(記録によると1945年8月29日死去)。

 私らの長屋も焼けたので海田町の親戚へ転がりこんだ。終戦はそこで知った。学校がないので昼寝をしていたら、学童疎開から戻っていた妹が「お兄ちゃん、負けたよ」と言った。涙は出なかったけれどびっくりした。国のために戦うことを教え込まれ、戦争をやめられるとは想像すらできなかった。力が抜けました。

 学校再開は冬も押し詰まって。翆町(現南区)の第三国民学校から年が明けると江波町(現中区)の陸軍病院分院へ移り、雑魚場町(現中区国泰寺町)の窓ガラスもないバラック校舎に戻ったのは秋でした。

 教師はそれまでの教えについて何も言わない。時代が変わったとはいえ、私はおかしいと思った。すると「葉佐井君、しかたがないんだよ」という。大人や世の中に対して不信感を覚えました。言われたままに信じるのではなく自分が納得できるまで考える。敗戦から、そうした哲学というか、姿勢をしだいに身につけていくようになりましたね。

 私らは学制改革による一中最後の卒業生なんです。鯉城高となったので旧制一中卒にしてもらい49年、私は新制の市立基町高に入った。逓信局勤めの父が広島へ戻り、借り入れ官舎が牛田早稲田町(現東区)となった。それで基町の1期生。

 男女共学ですから勝手が違う。授業より図書館で本を読み、化学では答案用紙にだるまを描いて出した。先生は(後に原水爆禁止運動の支柱となる広島大教授)今堀誠二さんの妹百合子さん、気心が合ったのか認められた。しかし、警察も当てにならなかった時代の影響でしょう、学校でも生徒同士の暴力がまかり通った。ところが教師は動こうとしない。暴力追放を呼び掛けて仲間を募り、広島城跡で話し合った。修学旅行もなく卒業となりました。

(2015年11月17日朝刊掲載)

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