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Peace Seeds ヒロシマの10代がまく種(第22号) 似島の歴史と今

戦争と原爆 記憶を伝える

 70年前の8月6日、原爆が落とされた直後から、似島(広島市南区)に多くの負傷者が運ばれてきました。1万人ともいわれています。軍の施設が多くあり、その一部が臨時の野戦病院となったからです。家族と再会できないまま亡くなり、島で火葬されたり埋葬されたりした人も少なくありませんでした。

 原爆の悲惨(ひさん)さだけでなく、似島は「軍都広島」の面影(おもかげ)も伝えます。120年前、日清戦争を機に陸軍の臨時検疫所(けんえきしょ)(第一検疫所)ができたのが始まりでした。宇品港(現広島港、南区)を持つ広島は、軍事輸送の一大拠点(きょてん)だったのです。似島は、その玄関(げんかん)口。戦争で日本軍にとらわれた捕虜(ほりょ)もたくさん連れてこられました。太平洋戦争の末期には「海の特攻隊(とっこうたい)」の訓練基地が置かれました。

 日本の近代の戦争と深く関わっていた島はいま、人々が釣り糸をたらし、キャンプなどの野外活動を楽しむ場です。島に残る遺構(いこう)を歩きながら、平和の尊さについて考えました。

<ピース・シーズ>
 平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲(さ)かせるため、小学6年から高校2年までの45人が、自らテーマを考え、取材し、執筆(しっぴつ)しています。

戦争と原爆 記憶を伝える

 広島港からフェリーで20分。似島は周囲16キロ、人口800人ほどの小さな島です。住民で郷土史研究者の宮崎佳都夫(かづお)さん(67)に案内してもらい、総務(そうむ)省が実施(じっし)する「地域おこし協力隊」として10月から島に住む静岡(しずおか)県出身の秋山知里さん(30)、福岡(ふくおか)県出身の小貫(おぬき)佳余さん(27)と一緒に歩きました。

■並んだ軍施設

 島の東側にある児童養護施設(しせつ)「似島学園」は、被爆翌年の1946年、肉親を失った子どもたちを育てる「広島県戦災児教育所」として開設されました。この場所に120年前にできたのが陸軍の臨時検疫所でした。戦争から戻(もど)ってきた兵士がコレラなどの感染症にかかっていないか検査しました。

 古い写真を見れば、いまも残る石積みの桟橋(さんばし)から兵士が次々と上陸していたことが分かります。海沿いに軍の建物が所狭(ところせま)しと並んでいました。静かなこの場所にたくさんの兵士がいたとは想像もできません。

 島の南東にある「広島市似島臨海少年自然の家」は、第二検疫所の跡地(あとち)です。二つ目の検疫所ができたのは、日本が戦争でたくさんの兵士を中国大陸などに送ったからです。日清(にっしん)戦争で13万人以上、日露(にちろ)戦争では67万人近くが検疫を受けたといわれます。第2次世界大戦が終わるまで兵士の検疫は続きました。

 70年前、原爆でやけどを負った人たちが船で広島市内から運ばれ、検疫所などに収容されました。何かあれば、検疫所を臨時の野戦病院にすることが決まっていたからです。1万ともいわれる人たちの多くが、自宅に帰れないまま亡くなりました。火葬(かそう)が追いつかず、穴を掘(ほ)って埋葬(まいそう)された遺体も少なくありませんでした。

■馬用の焼却炉

 自然の家のそばに、軍馬用の焼却炉が保存されています。1990年、軍馬を扱う馬匹(ばひつ)検疫所があった場所に埋(う)まっていたのが発見され、ここに移されました。骨片も出てきました。動物を処分する施設で、人間がまとめて焼かれたのです。罪のない犠牲(ぎせい)者の遺体を粗末(そまつ)に扱ってしまうほどの混乱も戦争の一部だ、と赤れんがの焼却炉が伝えているかのようです。

 焼却炉の遺構の近くに古い井戸(いど)があります。負傷者が息絶(いきた)える前にここの水を飲んだのです。宮崎さんは「似島全体が原爆で亡くなった人の墓場。決してのどかなだけの島ではない」と言います。遺構を巡(めぐ)ると、身の回りの戦争と原爆の歴史をもっと知らなければならない、と感じます。遺構を次の世代に残していくことも大切です。(中2プリマス杏奈、中1目黒美貴)

収容された被爆者「水をくれ」

4歳が見た光景

 原爆が落とされた後の島の混乱ぶりを、元住民の冨士本君一(ふじもと・くんいち)さん(74)=写真(撮影・目黒美貴)・広島市中区=は覚えています。まだ4歳でしたが、それだけ残酷(ざんこく)な光景でした。

 広島市内に出かけていた伯母(おば)たちを捜すため、負傷者が収容された馬匹検疫所を祖母と一緒(いっしょ)に歩きました。床(ゆか)に並べられた人たちは、皮膚(ひふ)がただれ、服はぼろぼろ。体を起こす力もなく、手だけ伸ばしてうめくように「水をくれ」と求めます。祖母はバケツで井戸水をくみ、ひしゃくで飲ませました。

 「まさに地獄(じごく)。『海岸にも遺体が打ち上げられていた』とも大人から聞いた」と振(ふ)り返ります。

 前年に父と伯父(おじ)を戦争で失っていました。父が乗った輸送船(ゆそうせん)はフィリピン沖で撃沈(げきちん)されました。大黒柱を失った冨士本家は苦労の連続だったそうです。「原爆は戦争の落とし子でもある。戦争だけは絶対に駄目」と強調します。「似島で起こったことを伝えてほしいから」と話してくれた冨士本さんの思いを受け止めたいです。(中3岡田実優)

埋まった遺骨。「早く掘ってくれ」と言われた気がした

04年にも85人を発掘

 似島では戦後に何回か遺骨の発掘が行われています。2004年にも、軍馬を扱う馬匹検疫所の跡地が掘り返されました。当時、地元の建設業者として作業をした住田健治さん(56)に様子を聞きました。

 馬匹検疫所は、原爆犠牲者が火葬(かそう)や土葬(どそう)にされたといわれる施設の一つでした。跡地にある似島中の敷地では1971年に推定(すいてい)で617人の遺骨を発掘。「まだ骨が埋(う)まっているはず」。島の住民が広島市に働き掛け、隣接地を掘ることが決まりました。

 ショベルカーで土をすくい上げ、3回目で人の足の骨が見えました。「早く掘ってくれ、と死んだ人に言われたようだった」と住田さん。頭の骨の数から推定して85人を発掘しました。腕時計などの遺品も出てきました。

 小さな骨もありました。あごに並ぶ2列の歯は、乳歯と生え出る前の永久歯。「自分も子を持つ父。何とも言えない気持ちになった」と言います。「発掘した場所は大切にしたい。踏まれないようにしよう」と、埋め戻した穴の上に土を盛りました。「慰霊(いれい)の広場」として地域の人たちが手入れをしています。

 似島のどこかに、「掘ってくれ。自分を忘れないで」と訴(うった)えている遺骨がまだあるかもしれません。原爆の悲惨(ひさん)さは「過去」ではありません。(中2溝上藍)

1894年 日清戦争が始まる
  95年 陸軍の臨時検疫所(第一検疫所)ができる
1904年 日露戦争が始まる。第二検疫所を開く
  14年 第1次世界大戦が始まる▽日本がドイツの租借地、中国・青島(チ
      ンタオ)を占領
  19年 似島に抑留されていたドイツ人捕虜のカール・ユーハイムが日本で
      初のバウムクーヘンを焼き、現在の原爆ドームであった捕虜の作品
      展に出品
  41年 太平洋戦争が始まる
  45年 原爆が投下され、検疫所が20日間、臨時の野戦病院になる
  46年 広島県戦災児教育所似島学園ができる
  47年 広島市が島内で遺骨を収集し、似島供養塔を造る
  55年 平和記念公園(広島市中区)の原爆供養塔に、似島供養塔から約
      2000人の遺骨を移す
  71年 似島中の敷地から推定617人の遺骨を掘り出す
  90年 馬匹検疫所にあった軍馬用の焼却炉の遺構を発掘
2004年 71年の似島中の発掘現場近くで推定85人の遺骨を収集

(2015年11月26日朝刊掲載)

【編集後記】

 私は取材を通して、初めて似島と原爆、戦争が深く関わり合っていることを知りました。幼いときの出来事を思い出しながら語ってくださった冨士本さん。70年経ったいまでも記憶しているのは、それだけ印象に残る体験だったということが伝わってきました。(岡田実)

 似島を訪れたのは今回が初めてでした。自然が美しい島、というぐらいに最初は思っていました。歴史について説明を受けるうちに、数々の戦争に行って中には傷ついた人たちも足を運んだ検疫所として、さらには原爆の死傷者を保護した重要で悲しい場所だったということに気付かされました。同じ広島市にある似島について、知らないままではいけません。地元のことをもっと学び、平和学習も頑張りたいと思います。(プリマス)

 私の家と同じ南区にありながら、似島は多様な歴史を持つ重要な場所だと取材で初めて知りました。原爆被害については小学校で被爆体験を聞いたり、被爆建物を見学したりしながらある程度実感していました。しかし、日清戦争や日露戦争は自分から遠い歴史上の出来事だと思っていました。とても近くの場所に戦争の痕跡が残っていることに驚きました。似島と戦争との関わりをもっと広島市民にも知ってもらいたいです。(溝上藍)

 初めて似島を訪れて取材をしながら、島の歴史だけでなく、島に住む人たちの温かみや心のつながりも感じることができました。原爆、といえば爆心地のある広島市中心部に目が向きがちですが、これからは戦争や原爆の影響を受けた他の島の歴史も学んでいきたいです。(目黒)

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