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連載・特集

『生きて』 核物理学者 葉佐井博巳さん(1931年~) <9> ロスアラモス

被爆の意識に目覚める

 文部省在外研究員として1981年、米ロスアラモス研究所に赴く。世界最高峰の「知の拠点」はニューメキシコ州に43年、原爆開発のため開所したのが始まりである
 原子核研究は、日本でも高エネルギー物理学研究所が設けられると巨大実験かつ国際的なものとなりました。ものすごいエネルギーで加速させた陽子同士の衝突もできる(現茨城県つくば市に71年開設、現在の高エネルギー加速器研究機構)。カリフォルニア大の教授も参加し、今度はロスアラモスの自然科学研究所でやろうという。同大は戦後、米エネルギー省から運営を委託され優先的に使えたんです。

 その時の共同研究は、陽子を磁石で曲げてターゲットの原子核に当てて反応を起こし、出てくる「中間子」を見る実験です。1キロくらい続く直線型加速器を持っていた。フランスやノルウェーなどからの研究者とも一緒に取り組みました。私にとっては初めての海外でした。

 原爆がロスアラモスで製造されたのはもちろん知っていました。私が暮らしたのは、東西冷戦下で中性子爆弾の開発も進めていたロナルド・レーガン政権の時代。機密保持のベールを感じました。

 研究所群は峡谷の台地に広がり、(州内最大の都市)アルバカーキから車でとなると一本道を上がるしかない。監視所が途中至る所にあり、私も夜中に車で帰って来たら挟まれ「ホールドアップ」です。自然科学と軍事研究施設は離れ、それぞれが着けるカードの色も違う。私らはあちらの図書館にも入れません。

 私が広島からの人間だとは研究者仲間は知っている。科学者として来ているのであって惨禍をあえて言う気持ちはなかった。しかし、原爆開発の展示施設がアルバカーキにはあり、来訪者は「ここで造ったんだ」と誇らしげに見ている。何を言うのか、冗談じゃないと思いました。

 ちょうど滞在中に、「T65D」(原爆放射線量を推定した65年発表の暫定値)では、広島の中性子線量が1桁少ないと論争が始まった。それだと中性子が人間に及ぼす危険性は10倍になる。原爆を体験した者としても見過ごせない。検証に努めなくてはと思うようになりました。

(2015年11月24日朝刊掲載)

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