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連載・特集

戦後70年 志の軌跡 第1部 四国五郎 <4> 広島平和美術展

戦争の痛み映す作品 創設から半世紀奔走

  「今年ちょうど原爆十周年を迎えるに当たりまして、何とかして今年こそはひらきたいものと、同志あいはかり寄り寄り協議しておりましたところ原水爆禁止世界大会広島準備会としても大会記念行事として、平和美術展をひらきたいとのご意向をききました」

 四国五郎が1955年の日記帳に挟んでいた、ガリ版刷りのチラシが記す。  55年8月に第1回が開かれた平和美術展は、ことしで60周年となる。創設メンバーの一人で、30代から半世紀近くにわたり中心となって支えたのが四国だ。

 参加と協力を広く呼び掛けるチラシの文面は、開催の経緯にも触れている。柿手春三、下村仁一、福井芳郎、四国ら当時の広島の美術界の各会派や職場で活躍する16人が6月27日に集まって話し合い、同展の準備会を設けて世話をすることになったという。

 趣旨は、「今次大戦は靉光(あいみつ)をはじめ多くの優れた美術人の命を奪った(略)吾々在広美術人がここに相集い原爆十周年を機会に広島平和美展を開催し(略)世界の恒久平和と造形芸術の発展に寄与せんとする」などと高らかにうたう。

 四国の日記からは、この年の2月ごろから友人と計画を話し合うなど、開催への苦労の跡がうかがえる。

 コーヒーを飲みながら8月6日の平和展のたくらみを話し合う(2月21日)/例の平和祭の美展のことで話し合ったが さてこれを実現するとなると いろいろたいへんである(3月9日)

 チラシにある6月27日の打ち合わせは長時間に及び帰宅が夜9時になったこと、30日には柿手、下村ら準備会メンバーで集まり、呼び掛け書類について話したことも書かれている。

 第1回平和美術展は、第1回原水禁大会の関連行事として、当時できたばかりの平和記念館(現広島市中区)で開かれた。審査も賞もないアンデパンダン方式で絵画と彫刻計170点が出品された。後に四国は「平和を願う熱気が集中。収拾できないほど多数の入場者だった」と述べている。

 この成功を受け、同年、柿手を会長に、出品者を会員とする広島平和美術協会を結成。より広く平和への意志を結集しようと2回展からは、写真や生け花、デザインの分野も加えた。4回目からは書も。プロもアマチュアも、広島から世界へと出品の輪は広がり、多いときには400を超える作品が並んだ。

 四国は創設から38回(92年)まで事務局長を担い、93年の39回から会長に。48回(2002年)まで務めた。

 四国は初期の資料を段ボール箱に納め、大切に保管していた。出品者を集めたり、会場を探したり。議事録や名簿、礼状の下書き、資金集めのメモ、会場の見取り図―。奔走ぶりを伝える。

 「ただ平和を願う強い気持ちで続けてきた手作りの展覧会。財政難や会場選びなど壁にぶつかりながらも、四国さんがいたから続けられた」。13回(67年)から出展し、80年から運営にも携わる千馬弘子(78)=中区=は振り返る。

 四国ら会の有志は、チャリティーで色紙作品を販売して被爆者援護のために寄付したり、原爆養護ホームを訪れて入所者の似顔絵を描いたりする活動も続けた。「純粋に平和を願う熱意はすがすがしかった。他人の痛みも世界で起こっている戦争に対する痛みもわが身に置き換えて考える人たち。その思いを絶やしてはいけない」

 四国は50回記念展(04年)まで、母子像を中心に数多くの作品を出した。母と子は、原爆だけでなく、ベトナム戦争や核開発、人種差別など、その後の世界を映す。

 当初はロシア文字の署名だった。過酷なシベリア抑留を経験した四国は一方で、終戦後の青春時代を送った旧ソ連(ロシア)に憧憬(しょうけい)や郷愁も感じていたようだ。しかし、81年と82年の間にサインがローマ字の「goro」に変わる。

 長女の松浦美絵(60)は、その理由を尋ねたことがあったという。四国の答えは、ソ連のアフガニスタン侵攻(79~89年)が理由だった。

 やはりシベリアで捕虜となり、四国の挿絵で体験記をまとめるなど親交があった、楠忠之(90)=西区=は「戦争を体験し、異国の地で他国の文化や思想に触れたからこそ、他を思いやり命を守るという、平和の基本が身に染みた」と語る。「五郎さんは絵を通して、それを実直に訴え続けた」と確信している。=敬称略(森田裕美)

(2015年2月3日朝刊掲載)

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