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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 津島休映さん―火鉢の灰を浴びたよう

津島休映(つしま・よしえ)さん(85)=広島市安佐南区

放射線なお不安。「あの日」伝え続ける

 「けがをしたけど、家族みんな生き永らえた。私はまだ恵(めぐ)まれていた方」。津島(旧姓岩香(いわか))休映さんは、つらい気持ちを抑(おさ)えながら記憶をたどります。

 1945年の被爆当時、14歳でした。広島市立第二高等女学校(現舟入高)1年生。普段(ふだん)は学徒動員で海田市駅(現広島県海田町)近くの工場に通い、手りゅう弾(だん)の鋳型(いがた)を作っていました。8月6日は登校日で、広島市尾長町(現東区)の自宅を出て、近くに住む2年生の西口京子さんと翠町(現南区)にある学校まで歩き始めたところでした。

 山陽線の愛宕(あたご)踏切(現南区)の手前で、いきなり猛烈(もうれつ)な熱風に正面から襲(おそ)われました。「火鉢(ひばち)の灰を浴びせられたかのよう」。「ピカ」も「ドン」も分かりませんでした。熱くて息ができず、目も開けられません。

 意識を失い、気付いたら周囲は真っ暗でした。徐々(じょじょ)に明るくなり、通り過ぎていたはずの愛宕神社(現東区、爆心地から約2・5キロ)が近くに見えました。20メートル余りでしょうか、吹(ふ)き飛(と)ばされていたのです。

 「西口さん」と何度も呼んで捜(さが)しましたが、返事はなく、姿も見えません。仕方なく一人で家に引き返しました。西口さんの消息は分からないまま。「あの時、もう少し戻(もど)って捜せばよかった」。今も悔やみます。

 家は祖父母、父、叔母(おば)、姉との6人暮らし。軍馬の調教師だった父は当時の陸軍被服支廠(ひふくししょう)(現南区)で被爆、首にやけどを負いました。ほかの4人は家にいて、軽傷を負うか、無傷でした。

 家では叔母が「よっちゃんが帰ってきた。髪(かみ)が焦(こ)げて縮れとる」と迎(むか)えてくれました。顔、両腕(りょううで)、げたを履(は)いていた足の甲(こう)などのやけどの痛みにやっと気付きました。「また空襲が来る」と言われ、帰宅した父を含む6人で大内越峠(おおちごとうげ)の山に逃(に)げました。

 道中の光景は地獄(じごく)のようでした。髪の毛や衣服が焼け焦げ、体中血だらけの人、やけどで皮膚(ひふ)が垂れ下がった人…。みんなはだし。道幅いっぱいに、よろけながら続きます。私もその列の中。「水をください」という声、途中(とちゅう)でうずくまる人…。「申し訳ないけれど、他の人にかまっておられない状態でした」

 山の上に逃(のが)れたころ、黒い雨を浴びました。雨宿りした松の木の下で、近所の人が「わしらの家も燃えだした。もう帰れん」と言うのを聞きました。何が起こったのか、これからどうなるのか…。全く分かりませんでした。

 やけどは水膨(みずぶく)れになり、顔は目がふさがるほどパンパンに。手足も腫(は)れ、痛くてしばらくは一人で動けませんでした。焼けた自宅跡(あと)に父が掘(ほ)っ立て小屋を建てるまで、1カ月近く知人宅などを転々としました。

 戦後、第二高女を卒業して結婚(けっこん)。夫とは死別しましたが、今は2人の娘の近くで暮らし、孫4人とひ孫1人がいます。

 20年余り前から不整脈や貧血に悩(なや)みます。「原爆の放射線が体のどこかに隠(かく)れていて、頭をもたげてくるのでは」と不安です。それを振(ふ)り払(はら)うよう「笑顔」を心掛(こころが)ける日々。ドレスで着飾(きかざ)り「ファッションセラピー」の舞台(ぶたい)にも立ちます。

 被爆70年のことし、自身の年齢(ねんれい)も意識し、「つらいけど『あの日』の情景を伝えるのは大事なこと」と考えるようになりました。地域の集いで証言もしました。「戦争、そして原爆は絶対にいけない」。「人生の残り火をかきおこすような思い」で訴(うった)え続けます。(谷口裕之)





私たち10代の感想

前向きな姿に強さ実感

 爆風(ばくふう)を受けて顔などにひどいやけどをした津島さんは、すりおろしたジャガイモを使って熱を取ってもらいました。つらい体験なのに、貴重な食料を使った手当てを受けた自分を「恵まれていた」と話します。今はファッションセラピーが楽しみだそうです。淡々と話す前向きな姿に、強い人だなと感じました。(小6森本柚衣)

証言 家族らに伝えたい

 体に潜(ひそ)んだ原爆の放射線の影響が、いつどんな形で出てくるか分からない―。こんな思いを70年間持ち続けてきたと聞いて、僕は気が遠くなりました。その心配はこれからも続くのです。こんなことはもう絶対にあってはならないと思います。聞かせてもらった証言を家族や友達にも話し、みんなで共有したいです。(中2鼻岡寛将)

戦争のない社会目指す

 「行列とキャンプが嫌い」と話す津島さん。被爆直後、治療(ちりょう)の列に並んだけれど負傷者が多くて診(み)てもらえなかったことや、掘っ立て小屋の中で土の上に寝(ね)た感覚を思い出すからだそうです。70年前のトラウマ。戦争は罪のない人たちを傷つけ悩ませます。私たちは戦争を起こさせない社会を目指します。(中2増田奈乃佳)

(2015年11月30日朝刊掲載)

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