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ある画家の嘆願 <下> 平和のために 戦争加害の認識訴え

 フィリピンで戦犯として裁かれた日本人への恩赦を求めて膨大な嘆願書を書き続け、平和への思いを深めていった加納莞蕾(かんらい)。一人の画家がなぜ、そこまで運動に没頭したのか。

 「自らの戦場体験は大きい」とみるのは、安来市加納美術館顧問で元高校教諭の三島房夫(76)。晩年の莞蕾と親交があった。莞蕾は1938年から1年余り、中国山西省で従軍画家として過ごした。「戦争の残酷さは骨身に染みたと、繰り返し語っていた」

 莞蕾が現地取材で描いた油彩「山西省潼関(どうかん)付近の追撃戦」(東京国立近代美術館蔵)は、疲れを振り切るように進む日本兵の後ろ姿を中心に、負傷兵や中国兵らしい死体が手前に見える。ただ一人こちらを向いた日本兵は首に遺骨を下げている。戦意高揚の趣とは遠く、従軍画家の絵では異色といえるだろう。

 莞蕾は終戦直後、戦死者を出した近所の家々を回り、写真を基に遺影を油絵に描いて贈ってもいる。嘆願書を書き始めてから画業は滞ったが、「運動を通じて『大きな絵』を描いたつもりだ」と後に語ったという。

■厳しい対日感情

 莞蕾の運動が、フィリピン大統領エルピディオ・キリノによる恩赦(53年7月発表)に、どれほど寄与したかの判断は難しい。日本人戦犯が現地で作った曲「あゝモンテンルパの夜は更けて」をヒットさせた歌手、渡辺はま子らによる運動などもあった。

 フィリピンでの戦犯裁判を研究している広島市立大広島平和研究所准教授の永井均(50)は「冷戦が深刻化する中、米国の対日政策の変化に沿ってフィリピンも対日融和へ動いたことが、恩赦の大前提にある」と強調した上で、莞蕾について「一私人が人脈を駆使し、まだ国交のない国の要人に直接アプローチしていった情熱には驚く」と語る。

 莞蕾は、日本兵に家族を無残に殺されたキリノに「赦(ゆる)し難きを赦す」よう願った。「当時のフィリピン人の対日感情はすさまじく厳しかった。国民の納得を得る上で、恩赦はキリノにしかできない決断だったろう」と永井。

 莞蕾はまた、この運動を「新生日本のモラル確立」に重ねて進めた。書簡の往復などを通じてフィリピン側の思いを胸に刻み、日本人が戦争加害を認識せずに恩赦を歓迎することには強く反対した。永井は「自国中心の史観ではない、他者感覚のある歴史認識。莞蕾の仕事はその大切さを問い掛けている」と言う。

 莞蕾は54~57年、今の安来市の一部である旧布部村の村長を務めた。55年、静養のために来日したキリノと東京で面会を果たしている。56年8月には村議会で「布部村平和五宣言」を決議した。

■思想の発信に力

 人口3千人余りの村が発した宣言は、自治の徹底と国際親善、世界連邦の一員としての自覚、原水爆禁止を高らかにうたい、子どもの権利を守る世界児童憲章の制定促進も訴えた。児童憲章制定の訴えは、戦争で愛児を奪われたキリノによる恩赦への応答であることが、宣言文から読み取れる。

 莞蕾は77年、73歳で死去。命日はくしくも終戦の日と同じ8月15日だった。

 莞蕾の絵や資料に触れられる加納美術館は、長男の溥基(ひろき)(故人)が96年、生家跡に開設した。2002年、旧広瀬町に移管され、合併に伴い安来市所管となった。

 これまでは溥基の備前焼コレクションの展示に重点を置いてきた。溥基から館長を引き継ぎ、今は名誉館長を務める四女の佳世子(71)は「運動に没頭し、家族に苦労を強いた父への複雑な思いも私たちにはある。でも今、父が考え、訴えたことの意義は大きくなっているように思う」。莞蕾の平和思想の発信に力を入れていくという。=敬称略(道面雅量)

(2015年12月11日朝刊掲載)

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