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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 池田智恵子さん―薬なく 泣きながら看護

池田智恵子(いけだ・ちえこ)さん(84)=東広島市

毎日のように山で火葬。むごい光景だった

 広島に原爆が落とされた1945年8月6日、池田(旧姓峠本(たおもと))智恵子さんは広島県安(やす)村(現広島市安佐南区)の安国民学校(現安小)高等科2年生、13歳でした。

 ちょうど、楽しみにしていた映画観賞会の日。爆心地から約9キロ離れた学校の講堂で上映の準備をしていました。窓のそばにいた時、「火の塊(かたまり)が飛んできたような」閃光(せんこう)が目に飛び込(こ)みました。ドドーンという大音響(だいおんきょう)。爆風の衝撃(しょうげき)で窓ガラスが割れ、頭に降りかかりました。防空頭巾(ぼうくうずきん)をかぶる間もありませんでした。

 近くの山に様子を見に行った男子が「広島じゅうが火の海じゃ」と言ったのを覚えています。大ごとだと思いました。黒い雨が降り、白いブラウスは黒く染まりました。

 そのうちに、けがをした人たちが広島の市街地から次々と避難(ひなん)してきました。目が飛び出た兵士、体中が焼けただれた親子、男か女かも分からない人もいました。恐(おそ)ろしい光景。学校だけではなく、周りの家でも受け入れました。

 看護には、消防団員らのほか、池田さんたち国民学校の上級生も加わりました。とはいえ薬はほとんどありません。赤チンや、すったキュウリを傷に当てるくらい。ウジがわき、それをピンセットで取ります。それが、来る日も来る日も続くのです。「まるで野戦病院。泣きながら看護しました」

 焼け焦(こ)げた手でもんぺをつかまれ「お姉ちゃん、助けて。水をちょうだい」と言われた声が忘れられません。「子どもを抱(だ)いてもらえんかね」と重症の母親から頼(たの)まれ、幼い女の子を抱きしめました。間もなく、母娘とも息を引き取りました。

 うみでカチカチの包帯を学校前の安川で洗っていた時、川の水を手ですくって1口か2口飲み、そのまま倒れ込んで亡くなる避難者も見ました。

 遺体は近くの正伝寺山で火葬(かそう)しました。「毎日のように…。全部で70人くらいでしょうか。むごい光景でした」。学校の救護所は2カ月余り続きました。

 池田さんの家族は当時、祖母と父母、5人のきょうだいの計8人。父は千田町(現中区)の勤め先に出ていたため、6日夕、次女の池田さんが1人で捜(さが)しに向かいました。けれども火災に阻(はば)まれ、三滝寺(現西区)近くの竹やぶに来たところで断念。幸い父はやけどを負いながらも夜に帰宅、家族に大きな被害(ひがい)はありませんでした。でも二つ下の妹は12年後、23歳で亡くなりました。放射線の影響(えいきょう)では、と強く疑っています。

 自身も被爆直後、慢性的(まんせいてき)な鼻血に苦しみ、かばんにはいつもちり紙を入れていました。「どうしてそんなに鼻血が出るの」という何げない言葉に傷つき、「原爆が憎(にく)かった」と声を詰まらせます。被爆から50年を過ぎて、心筋梗塞(こうそく)や皮膚(ひふ)がんも患(わずら)いました。

 それでも、同じ被爆者で30代から体調が優れなかった夫の正太郎さん(2006年に77歳で死去)を助ける形で昼間は石材研磨(けんま)の作業をこなし、夜は洋裁仕事に没頭(ぼっとう)。「原爆には負けない。冬は必ず春となる」と自らに言い聞かせ、5人の子を育てました。今は25人の孫と13人のひ孫がいるそうです。

 10年前、次男のいる東広島市豊栄(とよさか)町に移りました。80歳を超えてから、若い人に訴(うった)えなければ、と体験を語ります。亡くなった人の供養にもなると思うのです。「人間同士が殺し合う戦争は絶対いけない。原爆は不必要」。声に力を込めます。(谷口裕之)



私たち10代の感想

未来へ責任果たしたい

 泣きながら看護に当たった池田さんは、その後、皮膚がんなどに苦しみました。しかし希望をなくさずに生きてきたと言います。僕たちも、つらいことがあっても生きる希望を持ち続けなければいけないと思いました。「あなたたちに託(たく)します」という言葉を胸に、未来をつくる責任を果たしたいです。(中2川岸言統)

核使われぬため取材を

 遺体が焼かれる様子、その時の臭(にお)い…。「その場にいた人にしか分からないことです」。ふっと漏(も)れたつぶやきが耳から離(はな)れませんでした。確かに私たちは想像しかできません。でも「本当に分かる」のは、おそらく核兵器が使われた時。そうならないため、小さな力ですが、取材を続けていきたいと思います。(中2藤井志穂)

平和な日常 大切さ実感

 「原爆は多くの命を奪(うば)い、生き残った人々の幸せな未来までも絶った」。この言葉を聞き、自分が70年前に暮らしていたらと想像し、戦争への恐怖(きょうふ)がますます膨(ふく)らみました。池田さんは「両親への感謝を忘れずに寄(よ)り添(そ)って生きて」とも言います。今ある平和な日常を大切にしていかなければと思いました。(高1見崎麻梨菜)

(2016年1月18日朝刊掲載)

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