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連載・特集

『生きて』 バレリーナ 森下洋子さん(1948年~) <8> 松山バレエ団

舞台見て直感 入団決意

 海外からの誘いを断ったのが大正解というのは、根無し草のように契約していたら、とっくに踊っていないと思うから。40歳を過ぎると、だいたい次の人に主役を譲らないといけなくなる。海外に行っていたら、今のように踊り続けていられたかどうか分かりません。

 1970年、「白毛女」を見たのが転機となる。松山樹子(みきこ)さんと夫の故清水正夫さんが創立した松山バレエ団の公演だった
 松山先生が舞台に登場した途端、鳥肌が立ちました。海外で見たようなゴージャスな会場ではないし、オーケストラもない。けれど、欧米を見て回っても、ぴんとくるものがなかった私は「うわっ、これだ」と感じました。

 そのころ橘秋子先生が病気になられ、私はほかの人に教えることが多くなっていた。もっと勉強したい。これから先、何とかしなきゃという思いが強かった。松山先生の踊りに出合い、教わりたいと思ったんです。先生にお願いに行きましたが、断られました。そのときはもう少し頑張るように言われたのです。

 橘先生は間もなく亡くなった。71年、もう一度、松山先生にお願いに行くと入団を認めてもらった
 移籍について世間でいろいろ言われる中で、松山先生と清水先生から「あなたは踊りに専念しなさい」と言われ、守っていただいた。ありがたかったです。

 そして松山バレエ団が友情を築いてきた中国に初めて行き、「白毛女」を踊りました。まだ国交がない時代。香港側から線路を歩いて入国しました。2カ月近く滞在し、周恩来首相も公演に来られた。中国との交流はずっと続いています。

 新天地でバレエに励む傍ら、神奈川県の教室で指導を始める
 生活のため、教室で教えるようになりました。食事も節約して1週間同じメニューになることも。バレエ漬けの日々で、遊びたい気持ちは一切なかった。というのも20歳のころに、よく遊びましたから。ディスコやマージャン、お酒も一通りやってみようと。車の免許を取り、マツダの車に乗っていました。でも稽古は一切休みません。このころ思いっきり遊んだから、もう遊びはいいやって思うようになっていました。

(2016年1月28日朝刊掲載)

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