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1902年の宇品港 写真発見 宮内庁所蔵 軍都広島伝える

 日本の近代化で兵員輸送の最大拠点となった宇品港(現広島港)の全景を1902年に収めたパノラマ写真があった。日露戦争前年の03年に明治天皇へ献上されていた。「軍都」として発展した広島市の姿も伝える一級の史料だ。県などの各史誌でも掲載されていない。宮内庁宮内公文書館が所蔵しているのを、広島市の「被爆70年史」編修研究会が見つけ入手した。

 写真は、5枚のカットをつなぎ20・8×136・1センチの大きさ。「宇品軍用地写真 明治三十五年修築落成後」の標題を貼った筒に収められ、写真裏には「明治三十六年十一月 参謀本部次長男爵児玉源太郎献上」の説明書きが付く。

 軍用桟橋を中心に、日本が統治した台湾から02年に本廠(しょう)を宇品に移管した台湾陸軍補給廠(04年廃止、陸軍運輸部を設置)や、陸軍糧秣(りょうまつ)廠宇品支廠、倉庫や荷造り作業場などが写る。左端には、商用桟橋や水上警察署(09年に建て替えられ被爆建物の旧県港湾事務所が現存)も見える。

 宮内公文書館が所蔵する1900年の北清事変での宇品港からの出兵写真と照らすと、軍用桟橋や各施設の増強が分かる。撮影には、中島本町(現平和記念公園)で写真館を開く片山精三が当たっていた。

 宇品港は1889年に完成し、94年の日清戦争で派兵拠点となった。さらに、北京で起こった北清事変でも広島城跡に司令部を置く第五師団が主力となり、「宇品陸軍所属土地建物修築ニ要スル経費」66万9050円が、「清国事件第二予備ヨリ支出」されていた(国立公文書館所蔵の「公文類聚(じゅ)」1901年5月6日付など)。当時、市の一般会計予算は約25万円だった。

 今回の写真や内閣公文から巨費を投じて宇品港を修築し、中国大陸や朝鮮半島の権益をめぐり旧ロシアとの衝突に備えていた近代化のさまが浮かび上がる。

 写真を見つけた、安藤福平・元広島県立文書館副館長は「日清戦争後の台湾統治で宇品港は補給の拠点になっていたことも見てとれる。被爆前の広島の役割や歴史的な位置づけを、関連する史料で掘り起こしていきたい」と話している。(編集委員・西本雅実)

画期的な史料だ

日本近代史を専門とする布川弘広島大教授の話
 宇品港の威容をこのように撮らえた記録写真は、広島を見つめ直す意味でも画期的な史料だといえる。内務大臣の児玉源太郎(現周南市出身)は明治36(1903)年10月あえて参謀本部次長に就き、日露戦争の立案計画に当たった。写真の献上は明治天皇の上覧を仰ぎ、遂行への同意を取り付ける狙いがあったとみられる。

(2016年1月31日朝刊掲載)

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