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連載・特集

グレーゾーン 低線量被曝の影響 第1部 5年後のフクシマ <4> 転機迫られる自主避難

 「これも、福島と自分を結んでくれるもの」。山間に市街地が広がる高梁市の市営住宅で、主婦(40)が福島県の広報誌や地元紙を開いた。「復興」の文字が躍る紙面。国の支援事業として、毎月届く情報源だ。「でも最近は、あまり読まなくなった」

支援打ち切り

 東京電力福島第1原発の事故が起こった5年前は、原発から約65キロの国見町に夫(41)と2人の子どもと暮らしていた。放射線被曝(ひばく)を心配したが、長男の通う小学校は「外遊びはいつも通り」。行政は「大丈夫」を繰り返す。子どもを守れるのは親だけ―。同じ思いの夫が高梁に職を見つけ、事故の7カ月後に避難した。

 さらに5カ月後、原発から約150キロ北の宮城県登米市にある実家でも、庭先で育てたシイタケが食品基準値の1キロ当たり100ベクレルを超えた。「放射能は福島県境で止まらない。やはり岡山で子どもを育て上げよう」と腹をくくった。

 気掛かりは国見町に残した家だった。定期的に家を訪れ、手入れしてくれる両親の「戻ってきて」という本音が伝わってくる。「子どもが大きくなったら、いつかは」という夫の福島への思いも感じていた。

 転機は昨年だった。各地の自主避難者のために住宅の無償提供を行ってきた福島県が、来年3月末での打ち切りを発表した。この主婦の場合、途中で支援元が高梁市に移っていたが、同じ扱いになる。住宅ローンの残額返済に加え、家賃の支払いも発生すれば大変。悩んだ末、家を売り出すことにした。

帰還促す流れ

 放射線量は低下したとして、全国の避難者に福島への帰還を促す流れが強まっている。自主避難者への支援打ち切りは象徴的だ。

 「生活基盤が不安定な人も多い。避難先で自立を模索している中、不安が広がっている」。東日本大震災の避難者でつくる「ひろしま避難者の会アスチカ」の佐々木紀子副代表(44)は会員の訴えを受け止める。

 「10~20年後に『避難しなくて大丈夫だった』と振り返るかも、と思うときもある。でも子どものことを考えると…」。家賃負担を軽くするため、広島市内での引っ越しも考え始めた会員もいるという。

 周囲に何とか現状を知ってもらいたい。だが、「自主避難者も多額の賠償金を得ている」などの事実に反する書き込みをネット上で見るたび、簡単ではないと佐々木さんは痛感する。

 行政が線引きした避難区域の一歩外にいた自主避難者。少しでも心穏やかに暮らしたい。そんな願いは今、曲がり角に差し掛かっている。(金崎由美)

自主避難者と住宅支援
 福島県は、一定条件を満たした同県からの自主避難者を対象に、公営住宅を借り上げて無償提供。民間住宅でも一部で実施している。2017年3月末で打ち切るとともに、その後も避難を続ける低所得世帯や母子世帯には、1年目に2分の1(月額上限3万円)、2年目は3分の1(同2万円)を補助する方針。

(2016年3月6日朝刊掲載)

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