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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 多山壽夫さん―焼け野原「何が起きた」

多山壽夫(たやま・かずお)さん(88)=広島市中区

優れぬ体調。家族のため気力奮い起こす

 「家族のため、自分がしっかりしなければ」。多山壽夫さん(88)は、この一念で被爆後を乗り切りました。広島市に原爆が落とされた1945年は、広島工業専門学校(現広島大工学部)2年生で18歳。早くに父を亡くし、母と妹2人の4人家族。被爆後の体調不良の中、住まいも転々としました。「苦労を苦労と言っておれなかった。よう体が持った」と振(ふ)り返(かえ)ります。

 8月6日朝は、千田町3丁目(現中区)の学校にいました。爆心地から約2キロ。校舎2階の窓際で青白い強烈(きょうれつ)な光を感じました。とっさに机の下に頭を突(つ)っ込(こ)んだ時、大音響(だいおんきょう)とともに衝撃(しょうげき)が来ました。気が付くと辺りは真っ暗。崩(くず)れかかった建物からやっとのことで抜け出しました。顔の左側や胸をやけどし、打撲(だぼく)や切り傷も負いました。

 友人と3人で向かったのが御幸橋(みゆきばし)方面です。途中(とちゅう)、自宅のある平野町(現中区)は「もう燃えよるよ」と知らされました。

 橋の一帯には、ざんばら髪(がみ)、服が破れ落ち、男か女かも分からない人たちがいました。触(ふ)れると痛むのか、皮膚(ひふ)の垂(た)れた腕(うで)を差し出すように歩く人、橋までたどり着いて横たわったままの人…。「何が起きたのか。恐(おそ)ろしい、情けない、何とも言えない気持ち」でした。

 京橋川の左岸に着いた救援(きゅうえん)の船に飛び乗って宇品(うじな)(現南区)へ。学校の制帽(せいぼう)を見て声を掛けてくれた陸軍船舶(せんぱく)司令部の見習士官の厚意で、3人は応急手当てを受け、ベッドで横になることができました。

 夕方、家族の安否が心配で、一足早く宇品を出ました。「何かあれば古市(現安佐南区)か阿品(あじな)(現廿日市市)の知人方に行く」。そう決めていたので古市を目指しました。

 水槽(すいそう)に漬(つ)けた上着で熱を防ぎ進みました。枝ぶりのいい樹木がいくつも焼けていると思ったら、黒焦(くろこ)げの遺体でした。広島駅辺りで南方に目を向けると、観音の三菱工場や江波の山が丸見え。「大変なことだ。全市が焼け野原。広島に何発の爆弾が落ちたのか」。頭は混乱したままです。

 夜遅く着いた古市の知人宅には母も妹も来ていません。翌7日、焼け落ちた平野町の自宅を確認して戻ると、入れ違いに母たちが訪ねてきたとのこと。無事を知って安心したのか、そのまま2日間、昏睡(こんすい)に陥りました。

 9日夜に目が覚めると母がいました。だるくて意識がもうろうとする体で阿品へ。再び古市、そして岩国、兵庫県姫路…と、その年の暮れまで引っ越しを重ねました。

 この間の9月には、古市に間借りしていた家が枕崎台風の影響で床上浸水(しんずい)。真夜中、板塀(いたべい)越しに家族を一人ずつ引っぱり上げて避難させるという危ない経験もしました。

 先が見通せず、体調も不十分な中で続いた試練。その都度、長男の自分がしっかりしないと、と気力を奮い起こしました。2年後に就職。焼け跡にバラックの自宅を再建しました。

 入社した商社が4カ月後に解散する不運もありました。しかしその後、当時の上司とつくった自動車販売(はんばい)会社が軌道(きどう)に乗り、後に社長も務めました。波乱に満ちた「無我夢中の人生」です。

 71年前を思い返し、「罪のない市民の命を奪(うば)った原爆は許せない」と言います。さらに「全ての原因は戦争を始めたこと。意見の衝突(しょうとつ)はあっても、戦争だけはいけない。戦争をしないという国が一つでも二つでも増えてほしい」と願います。(谷口裕之)

私たち10代の感想

人々の日常を奪う原爆

 自身もけがをしながら、柱の下敷(したじ)きになっていた同級生を助け、発熱を押(お)して家族の住まい確保に努めた多山さん。すごいなと感じました。私なら自分のことで精いっぱい。被爆時には同じような人が多かったはずです。一瞬(いっしゅん)にして人々の日常生活を壊(こわ)してしまった原爆。絶対に使ってはいけないと思いました。(中2鬼頭里歩)

争い生まぬよう努める

 罪のない人が巻(ま)き込(こ)まれた原爆の惨状(さんじょう)を目の当たりにし、住まいも転々とした多山さん。精神的にも肉体的にも相当な苦労だったと思います。「戦争を始めたということが全ての原因。戦争だけは絶対にしてはいけない」と強調します。私は普段(ふだん)の身近なところから、争いを生まぬよう努力していきたいです。(中2平田佳子)

具体的な体験伝えたい

 被爆後、多山さんは体に無理を重ねながら家族のために走り回りました。長男の責任感でした。勉強などに集中できる今の僕(ぼく)たちと対照的です。自分のやりたいことをしたい時期だったはず。原爆がそれを阻(はば)んだのです。焼け焦げた遺体を木と見間違(みまちが)えた話など、具体的な体験も含(ふく)め、その怖(こわ)さを伝えていきたいです。(中3上長者春一)

(2016年3月7日朝刊掲載)

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