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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 松本秀子さん―燃え続ける街 帰路阻む

松本秀子(まつもと・ひでこ)さん(86)=呉市音戸町

家族6人奪われ、「8」「6」に今も体すくむ

 広島市材木町(現中区)に住んでいた松本(旧姓喜多)秀子さん(86)は、今でも「8」と「6」の数字を同時に見ると体がすくみます。あの日、原爆に家族6人の命が奪(うば)われたからです。最期をみとることもできませんでした。わが家があった跡(あと)にできた平和記念公園を、家族の眠る大切な「お墓」のように思っています。

 1945年の被爆当時は15歳、市立第二高等女学校(現舟入高)の2年生でした。8月6日午前7時ごろ、母ヨシエさんの作った弁当を携(たずさ)え、爆心地から約3・2キロ離れた翠町(現南区)の学校に向けて家を出ました。

 教室で友達と話していた時です。突然、オレンジ色の光に包まれ、机の下に潜(もぐ)り込みました。5、6秒後、逃げようと立ち上がった時、爆風に襲(おそ)われました。右半身に割れた窓ガラスの破片を浴びました。校庭に掘った防空壕(ごう)に入って落ち着くのを待ちましたが、学校からは何の指示もありません。他の生徒から「広島が大変なことになった」と聞き、帰ることにしました。

 「お水ちょうだい」。道すがら、けがをした被爆者の多くから求められました。御幸橋の上は、服がちぎれ髪が逆立った人であふれています。まるで地獄のようでした。火の勢いと煙が行く手を阻(はば)み、同級生の家のある己斐町(現西区)へ向かいました。

 午後3時ごろ、同級生宅でやっと弁当を食べましたが、家族の安否が心配でなりません。同町にある知人の実家に移り、一睡(いっすい)もせず夜を明かしました。市街地は燃え続けていました。

 翌7日、繁華街だった材木町にたどり着くと、一帯は360度見渡せる焼け野原と化していました。言いようのない悲しさに襲われ、涙があふれ出ました。8日、火が収まった自宅跡に入ると、玄関と台所に2体の白骨が…。茶筒(ちゃづつ)の缶に入れて持ち帰りました。

 10人家族のうち生き残ったのは、自分と、その日、食料調達のため中広町(現西区)に行っていた父嘉吉(かきち)さん、広島県三良坂町(現三次市)に学童疎開していた妹、弟の4人です。

 40歳だった母や、上流川町(現中区)にあった中国新聞社へ出勤した17歳の姉、7歳と2歳の弟、4歳の妹はどうなったのか分かりません。土橋周辺(現中区)へ建物疎開作業に行った13歳の妹については、天満川のほとりで焼けちぎれた上着を見つけました。くすぶる服を脱ぎながら、川に入ったのだと思います。

 母の古里の音戸町(現呉市)へ移り、疎開先から戻った妹、弟も一緒に暮らし始めました。父は頭髪が抜け、口の中の肉が溶けて歯も抜け、一気に「おじいさん」のようになりました。それでも何とか仕事を探して収入を得ました。60年、58歳で亡くなるまで原爆症と闘(たたか)い続けました。

 母のきょうだい、55年に結婚した夫の故正光(まさみつ)さんをはじめ、多くの町民が、温かく接してくれ、原爆の恐(きょう)怖(ふ)から逃れる手助けをしてくれました。

 53年にテレビ放送が始まってからは、行方不明の家族が映っていないか、画面を見つめました。どこかで生きていないか―。死が信じられなかったからです。

 今は、約10年前から始めたコーラスに夢中です。歌は心を一つにします。歌が大好きだった姉にも思いをはせます。平和記念公園に行くと、必ず材木町跡の碑に参ります。ひっそりと立つ石を手でさすり、家族に「また来たよ」と語り掛けるのです。世界中から人々が訪れ、平和を祈るこの光景が、国境を超えて広がることを願っています。(山本祐司)

私たち10代の感想

家族の死 受け入れ難い

 テレビや新聞で、母やきょうだいの姿をつい捜してしまうと聞き、松本さんの家族へのいとおしさを強く感じました。家族の亡くなった姿を見ないまま、死を受け入れることは難しいと私も思います。一緒に暮らした記憶を最後に生き抜くのは、どんなにつらいでしょう。戦争や核兵器を憎む気持ちが伝わりました。(高1上岡弘実)

往時思い祈りささげる

 平和記念公園は「お墓」のように、亡くなった人に思いをはせ、会話することのできる場だと感じました。原爆が投下される直前まで、そこで人々が暮らしていたということを忘れてはいけません。今後は、当時の街並みや人々の生活を想像しながら訪れて、手を合わせる人たちと一緒に世界平和を祈ります。(高2風呂橋公平)

家族や友達と心一つに

 「世界中の人がまとまり一つになってほしい」と松本さんは繰り返し訴えました。みんなで歌ったり国が違っても平和を祈ったり、方法はたくさんあります。松本さんが願うように、家族全員で食卓(しょくたく)を囲むことも身近で大切な方法です。家族や友達がいることに感謝して、心を一つにしていきたいと感じました。(高3中野萌)

(2016年4月4日朝刊掲載)

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