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毒ガス「学徒の会」解散 竹原・大久野島で動員 高齢化 被害者団体も危機

 大久野島(竹原市忠海町)の毒ガス製造に動員された元学徒でつくる「旧忠海分廠(ぶんしょう)動員学徒の会」が、竹原市に解散届を提出した。別の団体も本年度内に解散する方針を固めた。他の毒ガス製造で健康被害を受けた人たちでつくる団体も高齢化が進み、体験継承が差し迫った課題になっている。(山田祐)

 動員学徒の会は18日、解散届を出した。主に島対岸にあった広島兵器補給廠忠海分廠で毒ガス運搬などに従事させられた動員学徒でつくる。

 設立は1980年。発起人の一人平田輝彦さん(89)=忠海東町=によると、会員数は当初の129人から名簿上で45人まで減った。最年少は86歳。平均年齢は90歳前後という。近年は総会を開催できず、会員の安否確認も十分でない状態が続いている。会長(90)の体調不良もあり、会長の家族と平田さんたちが話し合い、解散を決めた。

 尾道市の「大久野島瀬戸田親睦会」も、本年度限りで解散する方針を固めた。

会員は35人。当時、瀬戸田町の高等女学校から大久野島に通い、風船爆弾の製造などに携わった。橋本三枝子会長(86)が退任を決意。後任が見つからなければ解散する。

 健康被害を受けた人たちの団体は合わせて九つある。国の健康管理手当を受け取るために必要な手続きの援助や情報交換、証言活動などに取り組んできた。

 被害者団体と周辺自治体でつくる大久野島毒ガス障害者対策連絡協議会は26日、竹原市役所で代表者会議を開く。事務局を置く市は、高齢化による運営難の実情を報告。対応を協議する。市まちづくり推進課の国川昭治課長は「会の解散が続けば、歴史の風化につながる。運営方法などについて議論していきたい」と話している。

大久野島の毒ガス工場
 竹原市忠海町沖3キロにある大久野島で、旧陸軍が1929年からイペリットガスやくしゃみ性ガス、催涙ガスなどを製造した。敗戦時には3千トンを超える量が残っていたとされる。従事した工員や動員学徒たちは、戦後処理も含めて7千人以上に上るとみられている。慢性気管支炎など呼吸器系の後遺症に苦しむ人がいまだに多い。

「負の遺産」継承が課題 毒ガス「学徒の会」解散

被害者の平均年齢88歳 証言の機会減る

 旧日本陸軍による大久野島(竹原市忠海町)での毒ガス製造に従事させられ、健康被害を受けた人の団体が、解散の危機に直面している。高齢化が進む中、「負の遺産」の体験継承に関係者の焦りは募る。(山田祐)

 県によると、国の健康管理手帳を持つ被害者はことし4月1日時点で1988人。前年より162人少なくなり、平均年齢は88歳になった。

 島にある毒ガス資料館の2015年度の入館者数は約7万人。島への観光客の増加に伴い、前年度の1・4倍になった。市によると「島に生息するウサギを目的に訪れた観光客が、資料館を見学して初めて毒ガス製造の歴史を知る事例は多い」という。

 一方、被害者たちが体験を証言する機会は少ない。大久野島毒ガス障害者対策連絡協議会に寄せられる証言の依頼は、年に10件程度にとどまる。大久野島毒ガス障害者三原地区親睦会の藤本安馬会長(89)は独自に証言活動を続けているが、頻度は大きく減った。「体が大変だ。でも、自らの役目として、できる限りは続ける」と打ち明ける。

 毒ガス製造は1929年に始まった。大半の被害者は、若くても当時10代。広島の被爆者よりさらに高齢化が進む。

 記録も十分とは言い難い。竹原市は95年ごろ、証言のビデオ映像をまとめたが、収録されたのは40人分にすぎない。本年度末で解散する方針の大久野島瀬戸田親睦会は、会員の手記や名簿などを地元図書館に寄贈した。

 資料館の初代館長だった故村上初一さんたちが設立した市民団体「毒ガス島歴史研究所」は、若い世代も活動する数少ないグループだ。40代もいる。

 証言する被害者の紹介に加え、平和学習を希望する学校を手助けする。山内正之事務局長(71)は「高齢化は止められない。だからこそ、地域全体で、世代を超えて体験を受け継いでいかなければいけない」と話す。

 同研究所は29日~5月1日、竹原市中央のたけはら美術館文化創造ホールで、団体設立20周年の資料展を開く。

(2016年4月24日朝刊掲載)

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