×

ニュース

「原爆焼」福山で発見 爆心地の土混ぜ悲劇伝える 

神辺の団体、50年ごろ制作 来月にも 広島県歴博に寄贈

 第2次世界大戦後、福山市神辺町の団体が、広島市の原爆の爆心地近くの土を混ぜて制作した陶器「原爆焼」が福山市で見つかった。悲劇を伝え売り上げを復興などに充てるため1950年ごろ作られたとみられる。原爆資料館(広島市中区)は「復興の歴史を示す貴重な資料」とみる。6月にも広島県立歴史博物館(福山市)に寄贈される。(福田彩乃)

 所有者は、同市で古美術店を営む延時立志さん(84)。昨年2月に85歳で亡くなった同市の知人、田和俊輔さんの自宅を整理した際に発見。遺族の了承を得て譲り受けた。

 高さ約8センチ、直径約8センチの茶わん。側面に、中国新聞の速記部長を務め歌人だった山本康夫さんの短歌「たひらぎの 祈りのなかに ひろしまの かなしミの日を またおもひいづ」や、「広島原爆中心地の土 原爆焼」などの言葉が刻まれている。

 同封の文書には、制作者は神辺町の「広島原爆記念会」と記され、「子々孫々永久後世に伝える目的」などと制作意図もつづられる。同会が田和さんの母貞代さんに宛てたはがきも同封されており、同会から貞代さんに贈られた物とみられる。

 1950年7月13日付の中国新聞には、同じ茶わんとみられる「原爆焼」の記事がある。5年間で全国に96万個を配布する計画や、売上金の一部を広島市の復興や戦災孤児救済の資金として寄付すると記している。

 同様に爆心地近くの土を混ぜて作った陶器には、48年に当時の広島市長が外国人に贈った「原子焼」があり、原爆資料館が1個所蔵している。原爆焼については、同館は今回のほかに現存を確認していない。同館学芸課は「当時、数多く販売されたと想像でき、復興の一ページを物語る資料」としている。

 延時さんは「公共の場で多くの人に見てほしい」と話す。県立歴史博物館は「今後、活用方法を検討したい」としている。

(2016年5月19日朝刊掲載)

年別アーカイブ