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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 掛井千幸さん―家を失い 両親毎日捜す

掛井千幸(かけい・ちゆき)さん(86)=東広島市

愛がほしかった。生きる意味求めた

 「想像してみてください。皆(みな)さんが16歳の時、家が全部なくなって、両親もいっぺんに亡くなって、独りぼっちになったら…」。掛井(旧姓五反田)千幸さん(86)は、目を潤(うる)ませ、声を震(ふる)わせながら優しく語り掛けます。「愛がほしかった。私のために何かしてやろう、という人がほしかった」

 当時、広島市立第一高等女学校(市女、現舟入高)4年で16歳。第二総軍司令部の通信兵として1945年8月8日から訓練が始まる前の1週間、休暇(きゅうか)が出ていました。同月1日、空腹を満たすため津名(つな)村(現三次市三和町)の曽(そう)祖父母宅へ行くことに。切符(きっぷ)を買うため、父寿男(ひさお)さんと朝5時に広島市天神町(爆心地から約300メートル、現中区)の家を出ました。玄関(げんかん)から水色のワンピース姿で見送ってくれた母イシ子さん。広島駅まで歩きながら、いろんな話をした父。最期の別れになろうとは思ってもいませんでした。

 6日朝、広島に戻(もど)ろうと志和地駅(現三次市)に着くと汽車が不通になっています。「広島にすごい爆弾(ばくだん)が落ちて汽車が上がってこない」。駅で1泊し、翌朝一番の便に乗りました。矢賀駅から歩いて相生橋へ。橋のたもとの大きな水槽(すいそう)には全身やけどの女性。自宅近くの元安川には男女が分からない遺体が、水が見えないほど埋(う)め尽(つ)くされていました。歩いていて、運動靴の底が熱かったのを覚えています。

 玄関前にあった水槽を目安に自宅にたどり着きましたが、両親の姿はありません。どこかに収容されていると思い、転がっていた木の炭で「両親不明、千幸無事」と水槽に書き残しました。緑井村(現安佐南区)の同級生の疎開先(そかいさき)や広中新開(なかしんがい)(現呉市)の叔父宅に身を寄せ、体調を崩(くず)す終戦まで毎日、両親に会いたい一心で歩いて捜しました。

 24日のことです。父の会社で働いていた従業員の連絡(れんらく)を受けて自宅の焼(や)け跡(あと)へ。顎(あご)に残っていた金歯から父の骨と分かりました。1メートルほど離(はな)れた所に母の骨も見つかりました。

 一人娘(むすめ)だった掛井さんは独りになりました。背中の痛みや髪(かみ)が抜(ぬ)けながら、46年春に市女を卒業。その後約1年半、神田村(現三原市大和町)の伯父(おじ)宅で農業を手伝いました。広島女子専門学校に進学する望みは断たれました。

 いとこがいた三原市に出て洋裁の専門学校で学び、洋装店に勤めました。クリスチャンだった店主との出会いが掛井さんを変えました。「人間味ある温かい人。渇(かわ)ききった、潤いのない精神状態から救い出してもらいました」

 また、法事で住職に涙(なみだ)ながらに「私も原爆で両親と一緒に亡くなってしまいたかったんです」と話すと、「両親の弔(とむら)いをするために残されたと思って一生懸命(いっしょうけんめい)なさい」と教えられました。以来、心がくじけそうになると「両親だったら何て言ってくれるだろう」と考えながら生きてきました。

 被爆者だから、と縁談(えんだん)の話を断られたこともある中、義父の生三(せいそう)さんの「ご両親の位牌(いはい)を持ってきて、うちで一緒(いっしょ)にお参りしてほしい」との言葉で結婚(けっこん)を決めました。夫勝俊(かつとし)さん(96年に68歳で死去)は7人きょうだいの長男。にぎやかな家で掛井さんの居場所もでき、1男1女にも恵(めぐ)まれました。

 今も酒販(しゅはん)店の店頭に立ちます。毎年8月6日夜はとうろう流しのため、両親を失った自宅があった平和記念公園を訪れます。「あの日のことは何年たっても昨日のことのよう」。生涯(しょうがい)味わうことのない、あの時のつらさを胸に、「せっかくの命だから大切に全うしよう」と思っています。(二井理江)

私たち10代の感想

核兵器は心も傷つける

 掛井さんは当時、両親も家も奪(うば)った米兵がとても憎(にく)らしかったそうです。そんな中、キリスト教と出会い、立ち直りました。

 核兵器は戦争と関係のない人たちの心も体も傷つけるとあらためて感じました。世界中の人に反核(はんかく)の意識をもってもらうため、平和の大切さや命の尊さを伝え続けていきたいです。(中1植田耕太)

今の暮らし 感謝したい

 もし私が今、両親を原爆で失ったとしたら、掛井さんのような行動がとれるか、何度も考えました。今まで暮らしていた街が変わり、川にはたくさんの死体。そして、両親もいない。私ならきっとパニックになって何もできなくなると思います。これからは、今まで以上に今の暮らしに感謝したいです。(高1岡田実優)

平和へ意見伝え合いを

 掛井さんは人々に対し、口先だけではなく、原爆の悲惨(ひさん)さを心から学び、平和を願ってほしいと言っていました。僕は今までより一層平和について考え行動し、同じ過ちを二度と繰(く)り返(かえ)さない世の中をつくります。そのためには言葉が重要。他の人と意見をしっかり伝え合うことが必要だと思います。(高2風呂橋公平)

(2016年5月23日朝刊掲載)

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