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連載・特集

『論』 戦後10年の原爆裁判 「義の人」の信念 いずこへ

■論説主幹・佐田尾信作

 <原爆民訴疑ひ多しペン走り次第に解き行く或問(わくもん)と題して>

 兵庫県芦屋市の閑静な住宅街を訪ねた。オバマ氏の広島訪問を控え、61年前に「原爆裁判」を提起した弁護士岡本尚一の歌集「人類」を手にしたいと思った。和紙に刷ってとじられた、箱入りの歌集に先の歌はある。一人の法曹の苦闘をしのぶよすがだ。

 岡本は原爆投下を国際法違反とみなし、米国や投下の責任者を裁くことはできないか、世に問うた人。1953年、「拝啓人類と文明の為一書を敬呈することを…」で始まる冊子を広島と長崎の弁護士に送った。「原爆民訴或問」と名付けた想定問答集である。

 <疑ひ多し>と詠んだように訴えの法理に100パーセントの自信はなく、意見を求める一文も付けた。実際には、日本は講和条約で賠償請求権を放棄したため米国を訴えることはできず、55年、下田隆一ら被爆者5人を原告とした日本政府への賠償請求訴訟に切り替える。

 「下田訴訟」とも呼ばれるゆえんだ。弁護士として縁者に被爆者がいる松井康浩も加わった。

 8年後、東京地裁は請求を却下する。損害賠償請求権は国内外の法に照らしても個人にはない―と退けたのである。その一方で原爆投下は無防備都市に対する無差別爆撃であり国際法上違反である―と認めた点は画期的だった。

 ただ、訴状を書いた岡本は判決を聞かぬまま急死していた。

 <東京裁判の法廷にして想なりし原爆民訴今練りに練る>

 岡本は東京裁判でA級戦犯被告の弁護もした。弁護団副団長で後の衆院議長、清瀬一郎のたっての頼みだった。戦犯の弁護など収入にならず悪評は免れない。だが、この東京裁判で旧日本軍の蛮行を知って衝撃を受けるとともに、連合国側の戦争犯罪が不問に付されたことにも岡本は憤りを覚えた。原爆裁判の伏線といえよう。

 孫娘の村田佳子が祖父を思い起こす。「赤い車で裁判所に行くような、おちゃめな人。祖母は家にお金を入れてほしいとこぼし、同じ弁護士の私の父(岡本拓)とよくやり合っていたそうです」

 東京裁判は「見せかけの裁判」であり、原爆裁判も徒労に終わる、と拓は考えていた。しかし父尚一の葬儀で友人代表が「蟷螂(とうろう)の斧(おの)」のような努力こそが歴史をつくる、と弔辞を述べたことに感銘し、恥じ入った。父と子には相通じるものもあったのだろう。

 原爆裁判は国が勝訴したが、原告は控訴せず終結する。しかし、判決内容はその後の被爆者運動などに理論的な根拠を与えた。

 被爆者援護法を制定した村山内閣で労相を務めた浜本万三は、著書「原爆被害はどうしても受忍できない」にこう記す。「広島・長崎の被爆者は(原爆投下に対する)損害賠償の放棄をただの一度として認めたことはなく、あくまで政府が独断で放棄した」。回想録を編んだ広島大文書館長、小池聖一は「ハママンさんは原爆裁判の判決を念頭に、援護法の論理を組み立てていたはず」と言う。

 広島市長だった平岡敬も95年、オランダ・ハーグの国際司法裁判所(ICJ)で、核兵器の使用はむろん開発、保有、実験も非保有国にとっては強烈な威嚇であり、国際法に反する―と陳述した。やはり原爆裁判の判決を踏まえたもので、「人道主義の精神に合致しない」としか言わない日本政府への批判を強くにじませた。

 <夜半に起きて被害者からの文読めば涙流れて声立てにけり>

 「原爆民訴或問」を出すや、被爆者からの手紙や電報が殺到し、配達の人までが「先生よろしく頼みます」と言い残した。だが、「義の人」岡本の思いむなしく、核軍拡競争はやまず、日本政府に毅然(きぜん)たる姿勢も見えない。広島はあす、オバマ氏を迎える。(文中敬称略)

(2016年5月26日朝刊掲載)

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