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社説・コラム

『論』 アリが変えた世界 今なら思想家と呼びたい

■論説主幹・佐田尾信作

 米大統領オバマ広島訪問の熱もさめやらぬ今月初めの昼下がり、通信社の速報が耳に飛び込んだ。プロボクシング元ヘビー級世界王者、ムハマド・アリが死去、74歳―。えっ、「モハメド・アリ」だよねとつぶやいた瞬間、テレビで昔見た映像が脳裏によみがえる。やがてカシアス・クレイと名乗った時代の記憶にたどりついた。

 カシアス・クレイは「奴隷の名前」だと本人はいう。かつての奴隷制では西洋古代の人物の名を黒人に付ける因習があった。人種差別に憤りイスラム教へ改宗した彼はその名を捨てた後、22歳にしてヘビー級世界王者の座を勝ち取る。1964年のことである。

 しかし、3年後にはベトナム戦争への兵役を拒んで有罪となり、タイトルを剝奪された。説得も受けたが、翻意することなく、3年半も栄光のリングから下りる。その真意とは何かを知りたくて、数冊の評伝を一気に読んでみた。

 「俺はベトコンには何の文句もねえんだよ」

 この象徴的な発言がアリにはある。ベトコンは当時の南ベトナム解放民族戦線を指す俗称で、米国の敵だった。何げない一言が支配層に与えた衝撃は大きかった。

 米の社会学者チャールズ・レマートの大著「モハメド・アリ」(中野恵津子訳、新曜社)が面白い。アリを英雄ではなく反英雄(トリックスター)と見立てて、「トリックスターは自分の道徳的誠実さに不安を抱く理由のある者を動揺させる」と読み解いた。

 ベトコンが俺をさげすみの言葉で呼んだことはない、という趣旨の発言もアリにはある。軍隊には露骨な人種差別があった。彼を締め出した支配層には、戦争と軍隊が抱える矛盾や欺瞞(ぎまん)が暴かれることへの恐怖があったのだろう。

 敵が見えない、任務の意味が理解できない。日本の真珠湾攻撃で戦端を開いた太平洋戦争なら「自衛の戦争」として説明できようが、「ベトナムは今も昔も歴史のブラックホールだ」とレマートは記す。的確な指摘に違いない。

 アリ追放の翌年の68年、時の大統領ジョンソンは泥沼化する戦争に行き詰まって引退を表明し、反戦運動は燃えさかる。日本でもベ平連などの運動が広がり、岩国をはじめ在日米軍基地のお膝元では脱走兵支援の活動も生まれた。

 ベ平連の知識人たちは「となりに脱走兵がいた時代」(思想の科学社)の対談でこう語る。

 作家小田実(まこと)「ひとりでもやめる、これが脱走兵の原理だ」

 哲学者久野収「(脱走兵たちには)自分で自分の行動を選択する範囲をできるだけ広めようとする生活のスタイルが強くある」

 支持者がいたとはいえ、アリの兵役拒否もたった一人の闘いだった。あの時代、脱走米兵たちと相通じる心境があったのだろう。

 アリとオリンピックの関係も振り返ってみる。アマ時代の60年のローマ大会で金メダルを獲得しながら、帰国後、変わらぬ人種差別に憤って川に投げ捨てた。36年後のアトランタ大会で、時の国際オリンピック委員会(IOC)会長サマランチからあらためてメダルを贈られ、聖火台に点火した。

 オリンピック研究者の広島経済大教授内海(うちうみ)和雄は「60年代はアフリカ諸国が相次いで独立し、国連より五輪への参加を急いだ時代。アリは国内で孤立しても、世界では受け入れられた。その先にアトランタがあった」とみる。一人のファイターに呼応するように、世界も変わったのかもしれない。

 「その未来では、広島と長崎は核戦争の夜明けとしてではなく、道徳的な目覚めの始まりとして知られるだろう」

 かのオバマの広島演説の、格調高い結びである。私たちにはそうした未来を選ぶことができる、という文脈として読み取れよう。

 だが原爆投下を「道徳的な目覚めの始まり」とみなすのなら、その後のベトナム戦争であまたの非戦闘員を犠牲にしたことをどう説明するのだろう。皆がナショナリズムの熱にうかされる中、「ベトコンには何の文句もねえんだよ」と言ってのけた方が時代と切り結んではいやしないか。

 今ならアリを思想家あるいは哲学者と呼びたい。その数々の発言に学んでみる価値はきっとある。(敬称略)

(2016年6月23日朝刊掲載)

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