×

社説・コラム

社説 沖縄慰霊の日 地上戦の記憶どう共有

 沖縄はきのう、「慰霊の日」を迎えた。71年前、太平洋戦争末期の沖縄戦で日本軍が組織的な戦闘を終えた日である。

 沖縄戦は、住民を巻き込んだ国内唯一の地上戦だった。「鉄の暴風」と形容された米軍の艦砲射撃などは3カ月近くに及び、日米双方で20万人以上の命が失われ、住民の4人に1人が犠牲になった。

 沖縄戦は勝つための戦いではなかった。本土防衛への時間稼ぎ、「捨て石」とされた。日本軍は住民に生死を共にすることを強いた。前線にさらされ、住民同士で命を絶たなければならなかった「集団自決」も各地で起きている。米軍の戦史に「ありったけの地獄」と刻まれた戦場のむごたらしさを思い知らされる。

 「県民が身をもって体験した想像を絶する戦争の不条理と残酷さは忘れられるものではない」。最後の激戦地となった糸満市の平和祈念公園であった沖縄全戦没者追悼式で、翁長雄志(おなが・たけし)知事が強調した。言葉を換えれば「軍隊は民を守らない」ということか。

 翁長知事は「悲惨な戦争の体験こそが平和を希求する沖縄の心の原点」と続けた。沖縄の心とは、命こそ大切であるという「命(ぬち)どぅ宝」であろう。多くの命を失った沖縄戦の最大の教訓である。戦後70年を超えた今年だからこそ、あらためて原点を見つめ直したい。

 戦争が終わっても、沖縄の県土は「銃剣とブルドーザー」によって強制収用され、本土に復帰した後も重い基地負担にあえぐ。国土の1%に満たない県土に、在日米軍専用施設の約74%が集中。基地があるが故の事件や事故も相次ぐ。本土の「捨て石」にされ続けているとの反発も当然だろう。

 米軍属が逮捕された女性暴行殺害事件でクローズアップされる基地問題や安保問題を論じる前提として、沖縄戦の体験を共有することが欠かせない。ただ戦後70年の節目が過ぎ、体験者が亡くなったり高齢化したりし、記憶の風化が懸念される。

 沖縄では、高校生や大学生が沖縄戦を語り継ぐ活動や戦跡のガイドを担う取り組みが広がっている。中国地方にも動きがある。例えば広島経済大の学生たちがゼミ活動で沖縄戦の悲劇を追体験しながら戦跡を巡る「オキナワを歩く」を続けている。

 沖縄戦で米軍が上陸した嘉手納町から日本軍が撤退したルートをたどり、沖縄本島南部の喜屋武(きゃん)岬まで約60キロを歩いた。野戦病院跡や日本軍司令部壕(ごう)の跡、慰霊碑などを巡り、元女子学徒たちの戦争体験を聞く。現地で聞いた証言や記録を冊子やDVDにまとめている。2007年に始まった活動は10回の節目を数えた。

 被爆地の広島、長崎もあらためて沖縄戦の悲劇を深く意識したい。メッセージも伝えたい。

 日本被団協は今年12月、被爆者が沖縄を訪れ、沖縄戦の被害者たちと交流するツアーを計画する。国の謝罪と補償を求める運動の連携に加え、体験を継承する課題について話し合う。

 再び悲惨な体験をしたくないとの強い願いは、戦争の現実を肌身で知る記憶によって引き継がれるのではないか。被爆地にとっても沖縄にとっても継承の在り方が岐路に立つからこそ、手を携えていきたい。

(2016年6月24日朝刊掲載)

年別アーカイブ