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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 船越富子さん―知らない土地 逃げ惑う

思い出すのも嫌。ここまで生きたから語る

船越富子(ふなこし・とみこ)さん(88)=広島市佐伯区

 18歳の時、原爆に遭(あ)った船越(旧姓光田)富子さん(88)。髪(かみ)が抜(ぬ)ける急性障害だけではなく、体調が優れないまま被爆から約7年後には下血で入院。原因は、原爆でした。何とか助かりましたが、ずっと貧血のままです。

 被爆当時、広島県祇園(ぎおん)高等女学校(現AICJ高)の4年生。2歳上の姉、片山文枝さんが結婚(けっこん)して住んでいた広島市田中町(現中区)に身を寄せていました。しかし、そこが建物疎開(そかい)の対象になり、1945年7月末、天満町(現西区、爆心地から約1キロ)に引(ひ)っ越(こ)しました。

 8月6日朝、家で可部町(現安佐北区)の動員先に行く準備中、突然(とつぜん)サアーッと青白い光が走りました。「うちに爆弾(ばくだん)が落ちたんじゃ」。目をつぶってうずくまりました。しばらくして胸が苦しくなって目を開けると、崩(くず)れた瓦(かわら)に胸まで埋もれていました。

 炊事場(すいじば)にいた姉も無事でしたが、同居していた高齢(こうれい)女性の家主「磯辺(いそべ)」さんは、家の下敷(したじ)きになり、引っ張り出した時には頭に大きな穴が開いていて、顔が血だらけ。「逃(に)げよう」と言いましたが「米の通帳と貯金通帳を探す」と動こうとしないので、置いて逃げるしかありませんでした。

 隣家(りんか)の男性は帽子(ぼうし)をかぶっていたと思われる部分以外は全裸(ぜんら)で皮膚(ひふ)がむけていました。隣(となり)にいた、その人の妻も浴衣の襟(えり)部分以外は全裸の状態。抱(だ)いていた赤(あか)ん坊(ぼう)は皮膚が丸むけになった肉の塊(かたまり)のようでした。

 引っ越し直後の知らない土地。人の流れについて逃げました。己斐町(現西区)の広島電鉄宮島線の踏切(ふみきり)を越(こ)えた所で、その近くの女性が、はだしで下着姿だった船越さんに、靴(くつ)とブラウスをくれました。

 たどり着いた旭山神社。石段を上がろうとすると、黒い雨が滝(たき)のように流れて来て段が見えません。ゆっくり探りながら上がりました。午後4時ごろでしょうか、黒い雨もやんだので、伴村(現安佐南区)の実家に歩いて戻(もど)りました。

 実家は、避難(ひなん)してきた親戚(しんせき)でいっぱい。裏の部屋で横になったら、だるさで動けなくなりました。髪も間もなく抜(ぬ)けました。

 戦後、母の実家があった戸山村(同)で教師をしてほしい、と依頼(いらい)が来ました。広島県三原女子師範(しはん)学校(三原市)に1年間通った後、村の新制中学の教師になりました。

 しかし、しばらくして体調不良のため足が教壇(きょうだん)に上がらなくなりました。「結核(けっかく)だ」と言われ、地御前村(現廿日市市)の教員保養所に入りました。エックス線を撮(と)っても異常なく、1年で退院。たまたま別の人を見舞(みま)いに来ていた聖示さん(86)に見初められて52年春、結婚しました。

 同年夏、夫が玉川大(現東京都町田市)に通うため神奈川県小田原市にいた時、急に下血。2週間の入院後、広島赤十字病院(現中区)に移りました。「輸血をしないと死ぬ」と主治医に言われましたが、肝炎(かんえん)を恐(おそ)れて拒否(きょひ)。「院内で悪い方から3番目」と言われながら生き延びて約1年後に退院しました。

 入院中、義母が夫に「原爆に遭っとるけえ子どもも産まれん。元気な嫁(よめ)をもらえばいい」と言っていたと知りました。退院後、娘2人に恵(めぐ)まれましたが、被爆の記憶(きおく)は封印(ふういん)しました。

 思い出すのも嫌(いや)だった被爆体験。積極的に証言活動をしていた姉が10年ほど前に亡くなったこともあり、「ここまで生きたなら語ろう」と昨年、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(中区)に体験記を寄せました。「人類の滅亡(めつぼう)につながる。核廃絶は絶対に必要」と力を込めます。(二井理江)

私たち10代の感想

戦争 行き過ぎた欲から

 「欲に走ってはいけない。核戦争になり人類は自滅(じめつ)する」。船越さんは何度も語りかけました。戦争は行き過ぎた欲から生まれるのかもしれません。そして、罪のない人々の命を奪(うば)うのです。核で核を抑制(よくせい)するしかないのでしょうか。核を否定する国が世界中に広がれば、持っている国も使えなくなると思います。(佐藤茜、13歳)

「命は一つ」 教えを刻む

 船越さんに「命は一つだからむちゃをしないで」と言われました。私と同じ年頃(としごろ)の時、目の前で多くの人の死を見たショックは、想像を絶するものだったはずです。自身も原爆で苦しんできたからこその言葉だったと思います。私も命を大切にしなければと、強く心に刻みました。(沖野加奈、16歳)

核兵器使用 滅亡を意味

 「平和な世界を築くため、若い世代がすべきことは」の質問に、船越さんの答えは「核廃絶」の一言でした。広島原爆と比べようがないほど核兵器の威力(いりょく)は増し、世界は今も危険と隣(とな)り合わせ。核兵器の使用は人類滅亡(めつぼう)を意味する。そのことを再度心に留め、自分に何ができるのか、あらためて考えたいです。(芳本菜子、17歳)

(2016年7月4日朝刊掲載)

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