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過酷な歩み 手記に刻む 故国追われ入市被爆 ユダヤ系ドイツ人 長女が公表

「地獄そのもの」「脳裏に焼き付くヒロシマ」

 大戦中も山口市で暮らしていたユダヤ系ドイツ人女性と叔父が、終戦翌日に広島で入市被爆していた。移送途上の1945年8月16日に広島で見た「死の街」や人々のさまを女性が手記に残していた。米国に住む長女への取材から、故国を追われた末に被爆したユダヤ系の過酷な歩みが浮かび上がってきた。(西本雅実)

 ヴィルトルート・ポッターさん(1918~2010年)が被爆4年後に記し、長女カースティンさん(69)が、平和記念公園(広島市中区)にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館へ寄せた。叔父は、旧制山口高(現山口大)ドイツ語教師だったヴェルナー・プライビッシュさん(1896~1945年9月)。

山口市から移送

 ドイツ語でノート26ページの手記は、「日独同盟」にあっても日米開戦後は警察の監視を受けた日々から始まり、ついには「岡山の山村へ45年8月6日に移るよう命じられ」と記す。同日の広島壊滅は3日後に知り、終戦を告げる15日の「玉音放送」は近隣住民と聞くが、命令は取り消されず監視付きで山口をたった。

 広島駅に着いたのは16日午前7時ごろ。出会った人々は、「あまりの恐怖に凍てつき悲しむことすらできない様子/裸同然で座っている人もいた」とつづる。

 宇品港とみられる場所と往復し、12時間余り留め置かれた。その間の光景を「地獄そのものだ…」とも表し、「爆発を浴びた人はみな、いずれ死ぬのだ」と聞いた話も記している。

 そして「ヒロシマは私の脳裏に焼き付く。どうすればあの光景から解き放たれることができるというのでしょうか」と結んでいた。

「体験 口にせず」

 ヴィルトルートさんは37年、独ハンブルクから山口に着く。叔父が呼び寄せた。「山口高等学校一覧」36~45年にはヴェルナーさんが「雇外国人教師 独語」として載っていた。ナチスが33年に政権を掌握し、教師をしていたギリシャから日本に渡った。

 ヴェルナーさんは、被爆の翌月11日に山口市内で自殺していた。同市の長寿寺に日独両語で刻む墓碑があり、ヴィルトルートさんが52年に建立し、生前はお供えを定期的に届けていた。

 ヴィルトルートさんは、元福岡高(現九州大)教師から米進駐軍で再来日した同い年のジョージ・ポッターさんと再会して結婚。東京生まれの長女との3人で49年に米国東部へ渡った。日本語は堪能だったという。

 長女カースティンさんは広島を4月に訪れたのを機に手記の公表を決めた。

 「母は広島での体験をほとんど口にしなかった。妹に障害があるのは放射線にさらされたと思っていたからです。核兵器の恐ろしさを知り、最期まで平和主義者でした」。叔父については、「ナチスに愛するドイツも婚約者も奪われた苦しみに、人間が広島で起こした惨劇を見て、死に踏み切ったのだろう」と答えた。

 広島原爆では、イエズス会ドイツ管区から派遣の神父4人が幟町教会(中区)で被爆した。山口にいたドイツ人の被爆が分かったのは今回が初めて。

(2016年8月4日朝刊掲載)

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