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社説・コラム

[私のカープ物語] 台所火の車 父が支える もみじ銀行特別顧問・森本弘道さん

 父森本亨さん(1987年に91歳で死去)は、もみじ銀行の母体である広島無尽の創業に携わり、戦後は広島相互銀行社長となった。被爆後の広島の復興と発展に貢献し、旧市民球場の建設費を拠出した財界有志「二葉会」の一員だった。

 「市民県民のために『カープと取引したれーや』ということでしょう。それにおやじは、石本さん(秀一、カープ初代監督)と疎開先が一緒じゃった」。有保村、今の安芸高田市向原町である。「だから相当、貸しとったようです」

 カープが設立時に「市民球団」を掲げたのは、親会社を持とうにも難しかったからだ。企業もこぞって原爆の被害を受けていた。自治体からの出資も滞り、球団の台所は火の車だった。「当然、返済はかなわん。大蔵省の検査のたびに始末書を書いたと言うとりました」

 森本さんが高校生の頃、石本監督が自宅を訪ねてきた。「父は『おらん言うてくれや』と。とぼとぼ帰られました。父もつらかったじゃろう」。監督に会ったのはその1回だけだ。

 銀行に入った森本さんは1960年代後半、旧市民球場に1年間通った。入場料や売店の売り上げの集金だ。ナイター後、硬貨と札を数えて勘定を合わせる。深夜労働になり、割に合わないことから、どの金融機関も断ったという。「きっと石本さんとのご縁で受けたんでしょうよ」と思いを巡らす。

 普通銀行に転換して広島総合銀行となり、頭取に就いた森本さんは95年、順位に応じて金利を上積む「カープV預金」を新設した。以来カープは一度も優勝していない。

 リーグ優勝した場合に上積む金利は年0・5%から0・2%に下がった。それでもカープが首位を走ることし、申し込みは過去最高の1981億円に達した。悲願達成となれば、金利負担は4億円近い。「これ以上めでたいことはない」と笑う。

 父亨さんは90歳になる年、ラジオ番組で二葉会を語っている。

 「原爆で街は壊滅して、一時は全く虚脱状態。生意気だが、みんなで復興に力を尽くそうと申し合わせた」。まずは市公会堂、次いでゴルフ場の広島カンツリー倶楽部(東広島市)を造る。「当時ゴルフは上流。一般には野球を見せようじゃないかと、松田耕平さんのお父さんの恒次さんが言い出した。士気もばらばらになってるからと」。はっきり、ゆっくりとした語り口だ。

 耕平さんは、カープの今のオーナー元さん(65)の父親。父の遺品に録音テープを見つけた元さんが、森本さんに贈った。(増田泉子)

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 写真展「復興の記憶 カープ物語」(泉美術館、中国新聞社主催)は9月4日まで、広島市西区商工センターの泉美術館で。月曜休館。

もりもと・ひろみち
 広島市中区生まれ。修道高、同志社大を経て59年、福岡相互銀行(現西日本シティ銀行)に入る。66年、広島相互銀行(現もみじ銀行)に入り、78年専務、90年頭取、2004年もみじ銀行頭取。06年に山口フィナンシャルグループ会長に就き、昨年退任した。西区在住、81歳。

(2016年8月11日朝刊掲載)

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