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社説・コラム

天風録 「ディランがいたから」

 「プロになって音楽をやろうと思います」。20歳の吉田拓郎さんは母親に置き手紙をして広島から東京へ向かう。若い頃家出したという異国のミュージシャンに自身を重ねたらしい。田家秀樹さんの「小説吉田拓郎」の逸話▲誰あろうボブ・ディラン氏のことだ。ノーベル文学賞への拓郎さんのコメントは当時の若者の代弁だろう。「ボブ・ディランがいたから今日があるような気もする。多くのことがそこから始まったと僕は思うのだ」と▲代表作「風に吹かれて」の歌詞は斬新だったに違いない。何回弾丸の雨が降れば武器が禁じられるのか、その答えは風に吹かれている―。ベトナム戦争の頃、「正義」の答えが見つからない時代の空気をすくい取った▲「歌手に文学賞?」という驚きは、まださめない。だが思いを言葉に乗せていかに伝えるかが、文学の醍醐味(だいごみ)なのかもしれない。古代ギリシャで活躍していた吟遊詩人とも重ねたくなる▲もう75歳である。受賞後初のコンサートを開いたが、受け止めはまだ伝わってこない。これも権威には甘んじない彼のスタイルか。いつもと変わらず、しゃがれ声でギターをかき鳴らし、また新たな誰かの背中を押すのだろう。

(2016年10月15日朝刊掲載)

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