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社説・コラム

『潮流』 それぞれのディラン

■論説主幹・佐田尾信作

 ボブ・ディラン氏、ノーベル文学賞決定―の一報に、ハルキストたちと共にいた若いテレビリポーターは「誰なの」と言いたげな表情を隠さなかった。同僚の中にも「BGMとして聞き流した世代ですよ」というベテラン記者がいる。皆が意表を突かれたのだ。

 当方は大学生だった1976年の初来日を覚えている。実際に近づこうと思ったわけではないが、どこか近づき難い存在であって、今はやりの言葉でいえば「神って」いた。むしろ彼のバックバンドだったザ・バンドの土くささにひかれてレコードを買い、解散ライブの記録映画「ラスト・ワルツ」を見た記憶がある。

 ディラン氏は日本では反戦フォークのカリスマの印象が強い。だが、それは一面にすぎず、訳詩集が出されるたびに同じ歌でも解釈が違うという。スウェーデン・アカデミーが本人に直接通知できなかったのは異例だが、受賞理由を全世界であれこれ思い巡らす点でも異例の受賞者である。

 フォークやロックが一つの「事件」だった時代があった。広島でいえば、71年のレッド・ツェッペリンのライブだろう。英国のハードロックの最高峰でありながら悪評も伝わっていた。しかし、初来日で広島を公演先に選んだのには理由があった。原爆を投下した側に連なる者としての「恥」を思っていたのである。

 8年前、音楽雑誌元編集長の星加ルミ子さんに尋ねる機会があった。ツェッペリン初来日を取材した彼女は「皆がビートルズに向いていた時代から、それぞれの音を探し求める時代に変わる時、ツェッペリンが現れたのよ」と読み解く。

 ディラン氏の歌を聴いて生きる勇気をもらった、という10代の声が今回報じられた。半世紀にわたって歌ってきた人だが、「それぞれの音を探し求める」次の世代に受け継がれる普遍性もきっとあるのだろう。

(2016年10月22日朝刊掲載)

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