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連載・特集

緑地帯 民喜と歩く 竹原陽子 <8>

 原民喜文学のどこにひかれているかと訊(き)かれると、「静謐(せいひつ)な文体」と答える。けれど、そう答えながら、文体とは実に不思議と思う。一語一語は誰もが使う言葉のはずだが、選び方やつなぎ方で書き手固有の文体が生まれる。

 文体とは、書き手の真のからだではないかと思う。どこを切っても血が流れる。書き手の内には、いくら言葉を駆使しても表しきれない、神秘に開かれた宇宙が広がっている。文体はその宇宙の外形だろう。

 民喜の文学は美しい文体によって形作られながら、その内に繊細で純粋な子どもを宿している。民喜は絶筆の小説「心願の国」で「一人の薄弱で敏感すぎる比類のない子供を書いてみたかった。一ふきの風でへし折られてしまう細い神経のなかには、かえって、みごとな宇宙が潜んでいそうにおもえる」と記した。そう願いながら民喜自身がそうした子どもで、その眼に映る世界を表した人だった。

 戦前作品に「幼年画」という、幼少期の思い出を描いた短編小説の作品群がある。初めて汽車に乗って宮島へ行く「不思議」。底まで透き通った川に遊ぶ「蝦獲(えびど)り」。広島を知る人には、一層愛着をもって読まれることと思う。

 私は強く大きなものにも憧れるけれど、弱く小さな自分から逃げないでいたい。民喜が夢見たように「人々の一人一人の心の底に静かな泉が鳴りひびいて、人間の存在の一つ一つが何ものによっても粉砕されない時が、そんな調和がいつか地上に訪れてくるのを」願って。(原民喜文学研究者=広島市)=おわり

(2016年10月25日朝刊掲載)

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