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グレーゾーン 低線量被曝の影響 取材を振り返って

 東京電力福島第1原発事故から5年の福島に通い、低線量被曝(ひばく)という「グレーゾーン」と向き合う人々の思いを聴いた。核時代の幕を開けた米国では、国内に多数生み出されたヒバクシャを訪ねた。解明を目指す研究の現状と課題も追った。連載企画に携わった3人の記者が取材を振り返った。

科学だけでは終わらぬ議論 報道部・藤村潤平

 科学ではっきりしない低線量被曝の影響をどう捉え、どう伝えるか。難しい取材になると覚悟し、東京電力福島第1原発事故の被災地へと通い始めた。1年前のちょうど今ごろだった。

 福島県二本松市が開いた放射線の勉強会で出会った主婦(44)の言葉が耳を離れない。「大好きだった福島が、今は好きかどうか分からない」。被曝の不安は、愛する古里への思いすら揺るがせていた。一方で「過剰に考えている」などと反発する人たちも多くいた。ただ、立場や考え方は異なっても、事故から5年たってなお、目に見えない放射線と向き合わざるを得ない現実がそこにあった。

 「もっとリスクを説明してほしかった」。東電などへの怒りの声をあらわにしたのは、北九州市在住の男性(42)。第1原発事故後の作業で被曝し、白血病になったとして国が昨年10月に初めて労災認定した。一時は危篤となり、その後に寛解してからも感染症を防ぐためのマスクを手放さない。

 男性は今月、東電に損害賠償を求め、東京地裁に提訴する。第1原発事故を受けた被曝による労災は、今年8月に認定された50代の男性を含めて2件。一方で、白血病の認定基準である年5ミリシーベルトに対して、累積で5ミリシーベルトを超える被曝をした作業員は2万人以上いる。「裁判を通じて、労災認定の事実を世の中にもっと広め、申請を諦める仲間が出ないようにしたい」。男性にとって、新たな闘いが始まろうとしている。

 低線量被曝のメカニズムを追う研究者の問い掛けは、今も胸に突き刺さったままだ。「低線量被曝の議論は、科学的でしょうか」。インタビューの途中で、逆に質問された。喫煙の健康リスクと比べたら、周囲から非難されたという。「人間の健康の観点で考えれば、比較しても何もおかしくはない。たばこは嗜好(しこう)の問題で、放射線は原発の是非も絡む政治的な問題だからなのか」と苦い表情を浮かべた。

 確かに、科学としての影響(リスク)を考えれば、喫煙も放射線も同列に扱えるのだろう。しかし、個人的にはそんな気にはなれない。純粋に科学の問題と捉えられるのか。突き付けられているテーマの重さをあらためて感じた。

 広島・長崎の被爆者の疫学調査で積み上げたデータと解析の成果が、100ミリシーベルト以下の被曝では発がんなどのリスクが増えるかどうかはっきりしないという「ゴールドスタンダード」を導き出した。そして、はっきりしない領域を「グレーゾーン」と呼んでいる。そこに問題の根幹があるような気がしている。

 科学では現時点で解明できない。だからといって、思考停止する必要はない。どう生きたいのか。何を大事にしたいのか。そう考えることが、答えを手繰り寄せる。科学は一つの指標ではあるが、生き方や価値観を決めてくれはしない。グレーゾーンをグレーゾーンたらしめるのは、自分たちかもしれない。明日への答えを導くため、これからも考え、問い続ける。

倫理的な問い掛け続けたい 平和メディアセンター・金崎由美

 福島第1原発事故で放出された放射性セシウムは広島原爆の168個分―。政府試算が公表されて以来、長年蓄積してきた被爆地の新聞記者の取材にも空白部分はある、との認識を強めていた。

 そこをわずかでも埋めようとする作業は簡単でない。クリアな答えは導けず、もどかしくもあった。生活の中で、意識的、あるいは無意識で放射線と向き合わねばならない福島の人たちの複雑な思いはいかばかりか。

 現地で「福島、とひとくくりにしないで」と言われ考え込んだ。「身の回りの線量は低いのに危険だとされる。風評被害だ」という切実な声。逆に「線量は場所によって相当違う。福島は大丈夫、というのは帰還を迫る圧力でしかない」とわが子の健康を心配する人もいた。

 どちらも本当だろう。特に線量が比較的高い地域では「放射能汚染はまばら」でもある。

 避難指示区域ではあるが、通行止めもなく自由に行き来できる福島県南相馬市の県道脇で被曝線量を測った。足元近くまで線量計を下げると、毎時78マイクロシーベルトに達した。事故などで受ける線量を「年1ミリシーベルト」とする場合の目安「毎時0・23マイクロシーベルト」の300倍以上だ。深さ5センチまでの土も採取し、汚染度を測定すると1平方メートル当たり2320万ベクレル。「放射線管理区域」である4万ベクレルと比べてもあまりに高い。

 避難指示のない地区にある取材先へ車を15分ほど走らせると小学生が土ぼこりを上げてサッカーボールを蹴っていた。何とも言えない気持ちになった。

 それでも、自分の意志で、あるいはやむを得ず暮らし続ける人が大多数だ。「安全・安心」を自分なりに手探りするしかない。ならば、政府も一律に帰還・定住を求めるのではなく、異なる選択に最大限の配慮をし、前向きに支援する道はないか。

 広島の記者として、もう一つの「核」を通して「低線量被曝」を捉えた。

 健康影響を巡り「たばこ」とともによく比較される対象が、冷戦期の核実験で世界中に放出され続けた放射性物質だ。「福島第1原発事故よりはるかに多い」と説明された。確かに、広島の土壌には今も原爆より核実験に由来する放射性物質の痕跡の方がはるかに多いと聞く。だが、例えは適切か。原発事故も核実験も、住民の自由意思で引き受けたリスクと違う。決して一方的に背負わせることが許されるものではない。米国を歩き、核実験の被害者の証言を直接聞きながら、あらためて痛感した。

 科学的な面から健康影響の有無を論じるだけでなく、倫理的な側面からも問い続けたい。「被曝によるがんは宝くじみたいなもの」と何度か言われた。個人にとって確率は非常に低い一方、集団でみれば確実に被害者はいる。さらに考えれば、確率が仮に千人に1人でも、宝くじに当選する確率よりはるかに高い。いや、当たった本人にとっては結局100%に等しい。

 本来、足を踏んだ側が「この程度ならOK」と決める権利はない。その原則を常に思い起こしたい。

福島の心情に耳傾け考える 報道部・馬場洋太

 「子どもの進学を機に、これから県外に避難しようとする人もいます」。取材で会った福島県に住む男性の話だ。「復興」や避難区域縮小のニュースの陰で、低線量被曝は今もなお、福島の人の心を惑わせている。

 科学者は「インドやブラジルには福島より自然放射線の線量が高い地域もある」などと説き、不安解消に努めてきた。だが、帰還を迷う人や今から避難する人は、科学者の言う「安心」に納得できないのだろう。

 違和感のもとは何か。昔読んだ本に手掛かりを見つけた。ガリレオの死後に、哲学者フッサールが「地球は動かない」と唱えた話。科学を否定はしないが、人間の感受性の世界にも一定の理があり、それは科学的な見方と同じではない、というのが彼の主張だ。確かにそうだ。「菜の花や 月は東に 日は西に」は天動説で「非科学的」だが、人間の感性には即している。

 翻って低線量被曝は、理系の科学の見方だけで議論していないか。科学は、自然放射線も原発事故の放射線も同じ単位で、リスクを同列に比較する。だからこそ、科学者は「このレベルの線量なら不安がる必要はない」とリスクの受容を説く。

 だが、人々の感覚では、事故で意図せず浴びた放射線は別物だ。何ミリシーベルトなら納得という単純なものでなく、人によっても受け止めは違う。10月下旬に広島市内であった学会で、福島の医師は「放射線を気にしていたら暮らせない、と表向き不安を口にしない人も、本当は感情を押し殺している」と述べた。それがリアルな感覚だろう。

 科学の議論には、もう一つ気を付けたいことがある。例えば「喫煙や運動不足の方が低線量被曝より高リスク」という言説。科学的に見えて、被曝のリスクを低く見せたい政治的な意図が隠れているかもしれない。

 もちろん、事故の責任を明確にするためにも健康影響は解明する価値があるし、その点で科学への期待は大きい。しかし、低線量被曝は理系の科学者だけに委ねるテーマではない。

 被爆地の役割もそうだ。原爆被爆者の追跡調査に基づく健康リスクの数字を示すだけでは、福島の人の心は響かない。福島には、土地を追われ、家族や地域が分断された原発事故に固有の心の傷がある。取材で得た感覚で言えば、被曝で生じた差別の問題をどう克服するかについて耳を傾け、ともに考えることこそ求められていると感じた。

 ただ、福島の健康被害は大きい、と決めつけない慎重さも要る。「被曝者」扱いを望む人ばかりではない。連載では紹介できなかったが、福島大の清水修二特任教授(財政学)は「福島の被害が大きい方が、原発反対に有利だとの考えが透けて見えれば、県民は快く思わない」と説く。「70年間草木も生えない方が核兵器廃絶に有利だったのに」と言われることを考えれば、福島の心情も想像がつく。

 科学に期待しつつ、危うさに考えを巡らせ、人の感性にも思いを致す。科学の暴走による地獄を経験した街の記者として、あらためて胸に刻む。

連載「グレーゾーン 低線量被曝の影響」

(2016年11月7日朝刊掲載)
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