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連載・特集

『生きて』 都市・建築研究者 石丸紀興さん(1940年~) <2> 戦中戦後

旧満州から郷里井原へ

  旧満州(中国東北部)生まれ。4歳まで過ごした
 錦州市という街。両親は井原市の出身で、父が満鉄(南満州鉄道)の関連組織に勤めるため、海を渡ったそうです。3歳下の妹を含めて家族4人が、市内の社宅で暮らしていました。

 戦火に遭った覚えはないけど、1944年12月に祖父が亡くなり、一家で帰郷した。葬儀を済ませ、両親と妹は45年3月、私を祖母と曽祖母に託して再び満州へ帰っていきました。その後、父は召集令状を受けて前線近くへ出兵させられた。敗戦後の混乱期、家族は奇跡的に錦州市の小学校で再会したと聞いています。

 私にも戦争の鮮烈な記憶があります。45年8月8日夜の福山空襲。約20キロ離れた井原からも見えた。山の向こうが真っ赤に燃え上がって。ぶるぶる震えが止まらなかった。

  46年5月、両親と妹も井原へ引き揚げてきた
 全く突然で。私は幼友達と遊んでいて、すぐに「お父さん」「お母さん」と呼ばなかったらしい。おばあちゃん子になっていたのか。両親は不満だったようです。ただ、今思えば、運命は紙一重だな、と。家族みんな生き延び、まみえて戦後の一歩を踏み出せたわけですから。

  翌47年4月、出部(いずえ)小に入学
 実家は農家でした。その頃、小学校では農繁休暇があって、私も田植えや稲刈りを手伝わにゃいかんのです。農家じゃない家の子は外で遊び回って、うらやましかった。

 ボーイスカウトに入りたくても、母が「だめ」と言う。そこで、お菓子のシールを集めたら児童書がもらえると知って、一生懸命になってね。「イソップ物語」や「宝島」など。図書館でも競うように借りて読んだ。当時の子どもはみんな、本を渇望していました。

 小学3年か4年の頃、初めて広島に行きました。祖母の親戚が小屋浦(坂町)にいた。現在の平和記念公園一帯を歩き、被爆瓦を買いました。旅行が珍しかったのか、学校の先生に「報告しろ」と。当時の広島の街は、ほこりっぽいけど、川沿いに人が大勢いてにぎやかだった。それが被爆地の最初のイメージです。

(2016年12月7日朝刊掲載)

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